【映画館訪問記】 プラネットプラスワン・大阪 編
梅田から、地下を移動し、東梅田という駅から一駅。中崎町という場所で降りる。
梅田の都会的な風景はかなり薄まって、商店街や小さな店が並ぶ。たった一駅で、ここまで景色が違う。
google map曰く、ここが「映画館」。一度通り過ぎ、再び戻る。1階部分はカフェになっているようだ。
扉も開いていることだし、カフェの店員さんに映画館はどこですかと尋ねる。
「出て右の扉を開けて、階段を登ったところです」と明るく案内される。
この、扉?これは、なかなか、”扉”という感じがする。取手の部分や鍵穴の感じが、壁の装飾にも見えてしまうのだが、確かに、館名PLANET+1と書かれている。
なかなか勇気が出ず、後ろを振り返ると、こんなものがあった。ここは映画館、間違いない。
映画の渋さも相まって、この看板を見て扉を開けるような通りすがりはなかなかいないだろうな、なんて考える。
ここ、プラネットプラスワンは、1974年6月に発足し、映画資料の収集や自主上映活動を行ってきた、プラネット映画資料図書館が母体である。
この図書館は2009年に神戸に移動し、神戸映画資料館として運営されている。研究者も所属し、NPO法人化されるなど、個人的にはとても気になる場所なのである。詳しくはこのリンクから。
上映場所として設けられたプラネットプラスワンは、1995年にオープンした。というと、もう25年はこの地で上映を続けているということだろうか。
そんなふうには見えない。なぜだろう、この黒板の感じは、かつての「ユジク阿佐ヶ谷」を思い出してしまうからか。今風のミニシアターに見えなくもない。
「毎日が映画祭」、いい言葉だ。名画座みたいなものは、毎日が映画祭なのかもしれない。映画祭は、商業の論理が働きづらい場所である。金のシステムからは逃れられない映画産業において、映画祭(もちろんカンヌやオスカーなどの国際映画祭は除くが...)は救いの場のようなものであろう。
独自の観点が許される場所だ。そしてコンセプトやテーマが左右する場所だ。なんてったって、お祭りなのだから。
さて、勇気を出して、入ってみよう...。
扉を開けると、段差が急で、狭い階段が現れる。警告の黄色いテープ、そして、静かに、の文字。扉の裏には上映作品のポスター、階段の壁にはチラシやポスターなどがかなり無造作に貼られたり置かれたりしている。
あまりにも、劇場っぽくない入り口に、私はついビビってしまう。ゴールデン街のスナックの入口と似ている。それか、神保町のレコード屋の入口か。
この写真からもわかるように、かなり傾斜がきつい。階段の先が見えないのが、また怖い。
何が待っているのだろうと思いながら、恐る恐る登った。すると、待っていたのは、メガネをかけた男性であった。
登った先は、この男性が一人立てるくらいの幅の狭い廊下しかない。しかもすぐに突き当たってしまう。劇場の入り口はどこだろう。
男性は私をじっと見つめ、立っていた。そして、かなり小さな声で、いらっしゃいませ、と言いました。
私も、縮こまりながら、こんばんは、と言いました。
スタッフ男性の目線から、階段を見た景色。
私は学生料金でチケットを購入。回数券なんかもあるらしい。
廊下の突き当たりには洗面台がある。この左のドアは、男女兼用のトイレだ。廊下の右部分に、スクリーンがあり上映スペースとなっている。
壁にかかるTシャツなどのオリジナルグッズ。コアなファンに支えられている感じがした。
その予想はかなり当たっているかもしれない。廊下の中央部分に扉があり、かなり狭い上映スペースに入っていく。上映15分前に、3人の先客。皆、中年男性っぽく、荷物が多めで、読書をしていた。
スクリーンの写真はまた撮ることができなかった。先客がいると申し訳ない気持ちになってしまう。
座席ーといっても、簡易的な椅子ーは、20もないくらいだろうか。クッションがところどころに置いてある。
ここは、ハリウッドの古典映画を流すことが多いようで、ところどころに貼られたポスターは、アーティスティックな雰囲気を醸し出している。
上映前に流れていた、別の作品の音声ですら、アート空間を促進しているようだ。
私の後に、3人ほど入って、トータル7人。狭いスクリーンでも、7人は少しゆとりがある。スクリーンはそこまで小さく見えることもなく、真ん中くらいの席から観てちょうどよかった。
今日は違ったが、サイレント作品の伴奏付き上映をやる回もあるようだ。そんな時に、この上映空間の狭さは、とても良いだろう。演奏を近くで見ることもできるし、楽器が狭い空間に響く感覚も味わえる。
今日の作品は、ジョン・フォード監督の『逃亡者』(1947年)。
警察に追われる異端な神父さんが、ナヨナヨしすぎて、人が死んだりして、本人も処刑される話。かなり辛かった。この手の映画は、好んで見ることはあまりしない。宗教色が強すぎることと、ハリウッド古典の文法の味気なさに、飽き飽きしているからだ。
前方に座っていたお姉さん、かなり堂々と眠っていた。私も何度か危なかったが、背もたれの低い椅子のため、頭が後ろに落ちてしまうのを恐れ、なんとか堪えた。
こういう場所ではないと、絶対に観ないだろうな、と、感慨深い気もした。
映画を観にいくのではなく、映画館に行く。どんな作品がかかっているかを知らないで行く。
それは、映画の上映時間の2時間ほど、非常に退屈な思いをするということでもある。
時に、驚くほどの面白い体験ができるかもしれない。でも今回は、驚くほどの退屈な時間だった。
「毎日が映画祭」。入り口に書いてあった言葉を思い出す。
映画祭、いや、祭りの何がいいかと言ったら、露天の食事が美味しいとか、花火や太鼓のパフォーマンスが凄いとか、直接的なコンテンツだけではない。そこで体験できるということ、場所の雰囲気、そこに集まる人、非日常という祝祭の場所に生じる、独特の感覚。それが祭りの魅力だろう。
だから、ここ、プラネット・プラスワンが「映画祭」なのだとしたら、観た作品がつまらないことは、何ら問題はない。祝祭の場所に足を運んだこと自体が、大事なのだ。この独特の、ある意味簡易的で即席的な、小さな箱で、訳のわからない映画を観ること。それが祭りでなければ、何だろうか。
そう考えると、退屈な辛い時間ですら、次第に愛おしく感じてくる。
小さな空間に、ヨワヨワ神父の失態が繰り広げられる...。私は眠気を堪えて、大阪の、知らない箱で、観ている。それだけで、満足だ。そんな訪問を、私は繰り返したい。祭りに、また足を突っ込みたい。
さて。眠らずに、バッドorハッピーエンドを見届けた私は、急な階段を気をつけて降り、夜の梅田に戻ってきた。
映画館巡りという、映画祭を、祭りを、続けよう。有名な『8 1/2』の台詞が頭をよぎる。「人生は祭りだ。共に生きよう」