ピエロ・スキヴァザッパ「男女残酷物語/サソリ決戦」
映画「男女残酷物語/サソリ決戦」(監督・脚本/ピエロ・スキヴァザッパ、美術/フランチェスコ・クッピーニ、音楽/ステルヴィオ・チプリアーニ、1969) 原題:FEMINA RIDENS ※監督名は、シヴァザッパとも表記される
1960年代のイタリア。男性の不妊治療を提唱するジャーナリスト・メアリー(ダグマー・ラッサンダー)は、取材のために慈善団体の幹部であるセイヤー(フィリップ・ルロワ)を訪れるが、そのまま拉致監禁される。セイヤーは男性の不妊治療には否定的であり、フェミニズムを心底憎んでいた。ハイテク機械を実装した奇妙な屋敷に連れてこられたメアリーは、セイヤーから肉体的/精神的凌辱を受ける。この屋敷では、これまで何人もの女が暴行を受けて死んだらしい。メアリーは死の恐怖に怯える。
女を嬲り殺し、いずれはメアリーを手に掛けようとするセイヤーは、シャルル・ペローの青ひげを彷彿とさせる。この童話において、殺される寸前の少女を救い出すのは彼女の兄だが、「男女残酷物語」のメアリーは、自らの力によって危機的状況から逆転する。
武器マニアで髪がやや後退した中年男性・セイヤーは、メアリーを支配下に置こうと様々な方法を尽くす。その変態っぷりが凄まじく、どうやったらこんなの思いつくんですか? と、もはや笑いがこみ上げてくるレベルだ。
・自身の分身であるビニール人間(なんでそんなの持ってるんだよ)とのキス、セックスを強要。
・すねから足の指先まで、オイルでゴシゴシマッサージさせる。(火でも起こすんか? ってぐらい擦る)
・高水圧シャワーを浴びせ、その様子をコンタックスⅢで撮影。(なんでコンタックスなんだろう)
・薄い布を纏わせ、ステージ上で踊らせる。(この場面はどことなく「サロメ」のよう)
・牢屋に閉じ込め、その外でエレクトーン(なんでそんなところに楽器があるのか)を演奏する。
興味深いのは、セイヤーとメアリーがセックスする場面が一度もない点だ。おそらくセイヤーは性的不能で、その代償行為として女を辱めるのである。バスルームや寝室で筋トレに勤しむのも、自らが「男」であることを証明するためだろう。
こうしてメアリーは、異様な方法で虐げられるわけだが、知的で賢いこの女は、男の想像を遥かに超えていた。メアリーは、異常性欲者のセイヤーに「あなたは治療を受けるべき」と諭し、不意を突かれた彼は次第に弱音を吐き始める。ある時、メアリーは服毒自殺を装い倒れる。すっかり気が動転したセイヤーは、献身的にメアリーを介抱する。彼の心境にいかなる変化があったのかは明示されない。
その後、二人はドライブに出かける。花畑をキャッキャウフフと駆け回るその姿は、まるで無邪気な子どものようだ。男は足の速い女に追いつくことができない。花畑や浜辺で若い男女が追いかけっこする場面はあらゆる映画・ドラマ・アニメ等に描かれるが、「男女残酷物語」におけるこのシーンは、従来の恋愛描写のパロディとも言えるだろう。改心したセイヤーはメアリーを愛しく思っているのだろうが、メアリーはそうではなく、むしろ彼を手懐けている。二人の関係性は男女の〈恋愛〉ではないのである。
メアリーは、おどけて木の枝にぶら下がったり、ミモザの花束を抱えて微笑んだりするセイヤーの姿をカメラに収める。カメラや写真を撮る行為は、一種の暴力性を孕む。メアリーは、撮られる側から撮る側へ逆転する。
冒頭にも述べた通り、セイヤー男性の不妊治療に否定的だった。女性だけがピルを飲めば良く、男性はリスクを負うべきではないと。彼は単に嗜虐的なだけではなく、女の身体そのものを支配することに意義を感じていた。医療的な観点から、男性が女性の身体を支配する構図は、今日においても同様である。例を挙げれば、低用量ピルが承認されるのに40年近くかかり、緊急避妊薬にもアクセスしづらい状況であることが思い起こされる。言うまでもなく、女性の身体は彼女だけのものであって、他の誰かのために存在するのではない。はじめ支配下に置かれていたメアリーが、自らの力によって権力を逆転させていくさまは、あまりにも痛快である。
映画末尾において最も目を引くのはニキ・ド・サンファルによる巨大女性像〈ホン〉だ。ヴァギナに吸い寄せられた男は、骸骨の姿になって戻って来る。
監督を務めたピエロ・スキヴァザッパは、日本では殆ど知られていない。ミソジニーや家父長制、性差別の問題をアヴァンギャルドなタッチで描いたこの作品は、現代においても鮮烈な閃光を放ち、社会に毒針を刺す。
本作品でセイヤーを演じたフィリップ・ルロワさんが、2024年6月1日に亡くなりました。心よりご冥福をお祈りします。