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ニナ・メンケス「マグダレーナ・ヴィラガ」(1986)

「マグダレーナ・ヴィラガ」(1986)監督・脚本/ニナ・メンケス
ヒューマントラストシネマ渋谷で観て以来、ずっとこの作品のことを考え続けている。彼女の作品を観るのは初めてで、数ヶ月前までは名前さえ知らなかった。


煌びやかなダンスホール、男を殺した容疑で娼婦アイダが連行される。血の繋がらない姉妹クレアだけが、警察に追い立てられる彼女を見つめる。アイダは無罪を主張するものの聞き入れられず、牢屋にぶち込まれる。時間軸は交錯し、出来事は反復しながらもずれていく。

本作品において特筆すべきは、執拗なまでに反復されるセックスシーンである。娼婦の部屋に上がり込んだ客の男は、彼女と言葉を交わすことなく、徐ろに服を脱ぎ始め、女の身体に覆い被さる。男は匿名の存在であり、スクリーンいっぱいに映し出されるのは、アイシャドウのよれた娼婦の顔だ。彼女は終始無表情で、身を捩ることも声をあげることもない。淡々と自分の上でリズムを取り続ける肉塊を受け入れている。興味深いのは、どのセックスも男が女の上に重なる正常位で行われる点である。「正常位」は英語でmissionary positionと言い、宣教師に由来するらしい。日本語・英語ともに、この言葉そのものがジェンダーの男性優位を意味しているが、本作品において、無表情の娼婦は常に男に組み伏せられている。男は女の反応など気にする風でもなく、一心不乱に性行為に打ち込み、息を荒くする。アイダのことを性的に眼差す一方で、実際には彼女のことなど目に入っていないかのようだ。
90分のうち、何度も繰り返されるセックスシーンは、観客(主に男性)の性的な欲望に応えるものではない。現代に至るまで、セックスシーンは製作者の意図とは拘わらず性的なものとして消費され、例えば今日においても、(主に女優について)「大胆濡れ場」「体当たり演技」といったように喧伝される。「マグダレーナ・ヴィラガ」におけるその場面は、そもそも「ラブ」シーンとは言い難く、観客の欲望からは乖離している。観客の、特に男たちの性的な眼差しを拒むかのように。

唯一アイダと連帯するのが、「孤児の、姉妹ならざる姉妹」クレアだ。ダンスホールの喧騒のなか、手錠をかけられたアイダが数名の警察官に連れて行かれる際、クレアただ一人が彼女を黙って見つめる。周りの者がアイダの存在を無視するのに対し、彼女に眼差しを向けるのは、クレアだけである。
眼差す行為は、一種の暴力性を孕んでいる。かつて参加したトークショーで、細野晴臣が「カメラを向けられると、銃口を突きつけられてる気分になるんだ」と話していたが、対象に眼やカメラを向ける行為は、暴力性を孕む。その一方で、〈眼差す〉ことは、対象そのものの存在を認めることを意味している。ともすれば存在をかき消されてしまうもの、語られないものに対する視線。
女たちは何度も同じ言葉を繰り返す。呪文と祈りの言葉はどこか似ている。あとどのくらい血を流せばいいのだろう。女は彼女の名前を叫ぶ。互いの存在を確かめるように。

結局のところ、アイダが無罪なのか、どのような裁きにあったのか、誰が男を殺したのかに関しては〈語られない〉。ただ空白だけが横たわる。最後に聞こえる銃声は、〈魔女〉を処刑したことを示唆するのだろうか。
薄暗いプールサイド、アイダとクレアの背中には黒い羽が生えている。二人の女を羽ばたかせることができるのは、彼女たちを眼差す観客の想像力である。

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