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プールを漂うクラゲ

白熱灯がちかちかと点滅する真夜中のプールに、一匹の小さなクラゲが棲んでいました。このプールがある街は、数十年前に放射能の雨が降り注いで以来、人間の気配も消滅し、すっかり廃墟と化しました。今では鉱物の摩天楼が、沈黙しながらそびえ立っています。風が吹けば、プールの水面は絹のカーテンのように揺れ、雨が降れば、その度に違う音楽が奏でられました。街の片隅のプールで、クラゲは静かに漂っていました。真夜中になると、クラゲはいつも水の上を見上げます。ぼんやりとゆらめく大きな月。今夜は満月です。また明日から月が欠けていくことを、クラゲは悲しいくらいに知っていました。

クラゲは恋をしていました。クラゲは黒曜石の空に浮かぶ月に恋し、月になりたいとさえ思いました。月は気まぐれ屋です。日毎に形や位置を変えます。あるときは雲に隠れます。またあるときにはどこを探しても見えません。無音の漆黒が夜の空気を浸すばかり。それでも翌日には、淡い光が闇を覗いています。薄目でじっと目を凝らすように。
この思いを、遠い、遠いところにいる月に伝えられたらいいのに。クラゲはいつしか思うようになりました。しかしながら、クラゲは手紙の書き方も、歌の一つも知りませんでした。クラゲは光に照らされたプールの水の中から、ただ見つめることしか、かないませんでした。空がラベンダー色になる頃、月は「さよなら」も告げずに沈んでいきます。その代わりに、まるで自分の存在など一度も疑ったことのないような太陽が、ゆっくりと顔を出します。月が完全に見えなくなると、クラゲはうとうとと眠りのなかに落ちていくのでした。そうして時は過ぎていきました。

ある日のこと、真昼間にクラゲが眠っていると、水の上で何やらガタンゴトンと音がしました。昼間に起きたことなど一度もないのに、クラゲはその物音ですっかり目が醒めてしまいました。太陽の光が水面に乱反射しているのを、クラゲは初めて目にしました。プールサイドには、白い防護服を着た数名の人間の姿が、蜃気楼のように揺れています。人間たちは忙しなく喋り、あちらこちらを行ったり来たりしました。クラゲはしばらくその様子を観察していましたが、やがて飽きてしまうと、再び眠りにつきました。

太陽に照らされた明るい水の中を微睡みながら、クラゲはうつらうつらと考えました。月はどんな夢を見るのだろうか。月と同じ夢を見ることができたら、どんなに幸せだろうか、と。クラゲは真昼の夢の中に溶け込んでいきました。
やがて夜がやってきました。白い防護服を着た人間たちの姿はありません。ただ白熱灯だけが、変拍子で点滅しています。今夜は新月です。

いつも通り、朝の光が柔らかに差し込んでいきます。ただ、今日はいつもと違います。プールの水が、すっかり空っぽになっているのです。昨日の白い防護服の人間たちが水を抜いたのでしょう。
水のないプールの片隅に、一匹の干からびた小さなクラゲがありました。水を漂うクラゲは、空気のなかでは溺れてしまうのです。

おわり


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