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映画「ブンミおじさんの森」

アピチャッポン・ウィーラセタクン (アピチャートポン・ウィーラセータクンとも表記される)「ブンミおじさんの森」(原題 Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives, 2010)
第63回カンヌ映画祭にて、パルム・ドール受賞。

タイ東北部の村。腎臓病を患い、死期を悟ったブンミおじさんの前に、19年前に亡くなった妻と、長年行方不明だった息子が現れる。未知の生物に魅せられた息子は、毛むくじゃらの猿の精霊と化していた。余命幾ばくもないブンミおじさんは、彼女らとともに深い森に入っていく。

アピチャッポンは本物の暗闇を描く。登場人物の顔が殆ど見えないほどの闇。夜の森では一切の視界を遮られ、地図も舗装された道も存在しない。思うに任せてただ闇のなかを進んでいく。何も見えないからこそ、静寂のなかの木々のざわめきや洞窟を伝う水の音、虫の声、鳥の鳴き声が響きわたる。現代は、ことに私の暮らす東京は、四六時中、人工の光で溢れかえっている。電灯や街のネオン、スマートフォンのブルーライト。「ブンミおじさんの森」を観ながら、そうだ、夜は本当はこんなにも暗くて、静けさが広がっているのだ、と思った。
明るい場所で目を開けていても、人は見たいものしか見ない。意識的であれ、無意識的であれ、切り捨てられる“何か”が存在する。だが、暗闇はどうだろう。何も見えないからこそ、人は暗闇に身を委ね、目を凝らす。想像力を働かせる。暗室もまた――ブンミおじさんが写真好きであることも示唆的である――、外部からの光を遮断することによって、フィルムに記録された像を浮かび上がらせる。暗闇であるがゆえに、目に見えるものがあるのだ。

ブンミおじさんの死後は、闇から一転して光が強調される。葬式の派手な電飾やホテルの蛍光灯、カラオケバーの照明、携帯電話の液晶画面。前半において時代性が希薄であるのに対し、後半は、これが“現代”の物語であることを提示する。しかしながら、これらの描写は〈文明/非文明〉や〈前近代/近代〉の対立を意味するのではない。森とともに暮らす日常も、現代的な日常も、彼ら/彼女らにとっては〈自然〉なのだ。夢幻的な世界のなかで、人は〈自然〉とともに生きる。

「幽霊は場所ではなく人に執着する」という。この作品において、幽霊や精霊は超越した存在ではなく、〈自然〉である。死んだ妻や精霊となった息子が現れようと、生者は驚くこともなしに〈自然〉として受け容れる。死もまた同様に〈自然〉である。タイの葬式はきらびやかな電飾に彩られ、一種の祝祭性を帯びているが、そこに死者を失った悲哀や湿っぽさはなく、旅立ちを見送るような、からっとした雰囲気が漂う。死を一つの門出として捉え、〈自然〉に送り出す。ラストシーンのカラオケバーでは、タイのポップスが鳴り響き、エンドロールへと繋がる。ちなみにこの曲のタイトルは、「Acrophobia」(高所恐怖症)。

なお、アピチャッポンは映画監督のみならず、美術家としても活躍している。今後も注目したい作家の一人。




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