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IN/OUT

◇ ことばを発すること

先ほどまで毎週社内に発信している
コラムの原稿を書いていた
全社員が読むということを考えると、
内容にも表現にも非常に気を遣う

不特定多数の人の目に触れるということでいえばnoteも同じ

感動させる、心に響く、上手いといった点にばかり
目がいきがちだけれど、ことばとして人の目に触れるということは、
それらに該当せずとも同じこと
人を傷つけること、不快にさせることもまた可能性の一端にはある

殊更に「言論の自由」を盾に取る方がいる
それは否定しない
とはいえ、公共の福祉もある
いや、もっと簡単に言えば、影響力を鑑みる必要がある
誰かのことばに傷ついたり、腹を立てる自分がいるように
自分のことばで誰かが傷ついたり、腹を立てる人が
いるかもしれない
きれいごとは要らない
思いやりや配慮ができるなら、それは立派な人だと思う
最低限、矛盾を指摘されたり、ことばが自分に
跳ね返ってくることくらい考える必要はあると思う

だからずっと思っている
「文句や批判は誰にでもできる」と
自分自身に対してこそもっとも批判的であるべきだと私は思う
ひとりになったら誰とも比べようもなくなる
矮小な自分自身を見つめるしかないのだから

◇ アートという観念的なものの魅力と怖さ

美術館に行くことが好きで、多い時は一日に複数廻ることもある

とはいえ、私は非常に浅学なので、技術的なことや歴史的なことは
ほとんど分からない
しかし、ことばという直接的なメッセージによらず、写真や絵画、
造形によって何らかのメッセージを伝えようとし、
それを僅かでも感じ取ることができた時に感動が生まれる

教科書に載るような芸術家はともかく、
現代アートとして発信し続ける
方々の評価は変わり続ける
創りたいものを創り、それが評価される人は
一握りのだろう
他者の評価と自身が創りたいものとの
せめぎ合いのなかでもがいている
のだろうか、と足りない想像力をはたらかせる
そのプロセスを出すことすら、枷になることもあるだろうから
孤独な闘いを続けているのだろう

観て、好き勝手評価することは
何と無責任なことか、と一聴衆にすぎない
私は思うけれど、好き勝手に評価することこそが
聴衆であり、ファンとしての責任の一旦
なのかもしれない、と同時に思う

考えすぎなのかもしれないけれど、
純粋に作品を楽しむ私と
ビジネスとの両立、クリエイターの方の
バックボーン等を深読みする私が
いて、存分に楽しませて頂いている

誰かの発したものに触れさせて頂けることは
面白く、そして学びの場だといつも思っている

明日も美術館に行きます

たんなるにっき(その103)


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