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【小説】ぼくとおじさんと ep.5

「私は結婚に憧れはあるけど、結婚しない、結婚できないと思うの。
いつも実験・実験で過ごしていて、それで家庭を両立させるのは今のままでは難しいの。
研究だけでは食べていけないし、アルバイトをしている人もいます。研究課題や先生にもよるけど国や大学の予算や金のことで配分がないと実験資材も不足して研究や実験もままにならない。私も自分の研究課題を成就させたいという人間からすると、先生のテーマと実験結果をアルバイトを挟んで続けると交代制で実験に一貫性が亡くなり、先生にもよるけど、私のところでは結局先生の研究の補助でしかない事になるの。
大学の教員と言っても2年の契約で非正規労働者みたいなもので、結果が出せなければ生活も不安定。就職しても結果を出すために徹夜をして家庭を犠牲にしている人もいる。
アメリカのように自由に研究できる環境じゃないのね。
教職の資格は取っているけど、それは自分の研究を半ば諦める事なのね。
だから結婚なんて、無理、無理。」
理系では色々あるが、文のようにギスギスな環境ばかりではないはずだ。
文はうそを言ってる。この場の話題から逃げようとしているとぼくは思った。それとも僕たちに言えないことがあるのか。
「そうか、それじゃ話も続かないな。ごめんよ、おじさんが無理なことを訊いてしまったんだね。」
「おじさん、もういいよ。ここは酒場だ。
いつものようにおじさんの難しい話、現代批判でも世界情勢分析でもやってよ。ちゃんと聞いてあげるから。ただ、酔っ払いにでも分かるようにね。」
おじさんは文から何を聞こうと思ったのだろうか。文の顔を静かに見ている。
「おじさん、ごめんなさいね。私、明日早いのでこの辺で帰らなければならないの。
電車の便も少ないので、失礼していいかしら。」
文はバタバタと帰り支度をしている。久しぶりに文と会って楽しく話をするつもりが意外な展開になってしまった。
「じゃあ、駅まで送るよ。」
ぼくも帰る段取りをする。見渡すと、客もまばらになっていた。そんな遅い時間でもないのだが、世間は暇になっているのだろう。会計を済まし、外に出ると店横の非常灯がチカチカとして切れそうだった。明るくはない入り口が寂しく暗かった。
おじさんとはそこで別れ、ぼくは文と駅まで歩いた。

夜なのだが、ここでは空に星は見えない。
文は口をひらくこともなく、ぼくも黙って歩いていた。
駅前の昔からある古い喫茶店の前に来て文がお茶を飲もうと言ってきた。振り返って僕を見る目が脹れていた。さっき泣いたからだろう。
店の中も閑散としていた。昔からの顔見知りのおばさんが水コップを持って注文を取りに来る。
昔からの馴れた息遣いだ。コーヒーは直ぐ運ばれてきた。
カップを口に運び、コーヒーをのどに通すと文が話し始めた。
「おばさんの話、知らなかったわ。聴けて嬉しかった。でも、結婚なんて、何で訊いてくるのかしら。武志の生活が厳しい事、経済的にも苦しい事知っていて。」
「ぼくと文が、以前同棲していて今も普通に付き合っていることに違和感を感じたからじゃないか。普通なら結婚するか、付き合いをやめてるからね。
おじさんの気持ちはわかるよ。ぼくが文を束縛しているのではないかと心配しているんだ。」
「束縛?私を? 」
「友達とは思っていないのさ。おじさんとしては、ぼくに文を自由にしてあげなさいという事を言いたいのさ。」
「私は自由よ。誰からも束縛されていないわ。
今日の話しも唐突だったし。それよりも武志の言葉を聞いてがっかりした。私を馬鹿にしているようで悲しかったわ。私は何だったのか、自分の馬鹿さ加減に腹が立ったわ。」
張れていた目に涙が溢れていた。
「俺の言葉?その他大勢のこと?何のこと?」
ぼくは文の勢いに押されてしまった。いつも静かな文が怒っている。
ぼくが何を言ったというんだ。
「恋人なんかいないわよ。母が見合いの話を持ってくるけど、武志の口からそんな話が出るなんて、まるで私が武志を縛っているみたいな。
武志に好きな人が出来たらそう言って。武志が自由になりたいなら言ってほしいの。」
「ちょっと待てよ。はっきり言おう。ぼくは文が好きだ。
家のドタバタがあって、つまらないぼくが親父の借金を引き受ける事で文に迷惑をかけたくなかったから、それまで口にしなかった結婚なんてできないと思ってきた。
だから、こうして会ってもらえるだけで幸せなんだ。
ただ、そんなぼくの思い入れだけで文を縛り続けることがいいことなのか、文の幸せを考えると何も言えなくなるんだ。」
文のアパートで絶縁宣言をした時のことを思い出した。あの時は頭の中が真っ白だった。
家のこと、自分のこれからを考えると支払いだけが頭にこびりついていた。
すると、ハンカチで目頭を押さえていた文が唸るようなで声でぼくを睨んだ。
「今まで、誰にも、武志にも言っていなかったことだけど、私妊娠していたの。」
「えっ!」
ぼくの返事は言葉にならなかった。今まで考えたことの無い衝撃がぼくの全身を襲った。
「妊娠が分かって武志に言おうと思った。怒るかしら、喜ぶかしらと不安だったけど、自分が母親になるという気持、嬉しさで一杯だった。
でも丁度その時、武志のお父さんが亡くなって会社の倒産や後始末で走り回り、疲れ切っている武志には言えなかったわ。
あの時、私一人でも産もうと思った。大学を辞め働きに働きに出ようと思った。でも、子供をおなかに入れて教職と言っても働くには遅すぎるし、アルバイトだって妊婦を雇うところなんてない。
どうしてよいのか分からなかった。おなかの子供は産まれたいだろうし、そうかといって生活も出来ない私に何が出来るのか。その頃は寝る事も出来ず体もくたくたになっていた。
武志の顔を見たくて何度か行ったわね。武志は銀行との話で疲れ切っていた。やっぱり話すことは出来なかった。もう、堕すしかない。それは私に死ねというぐらい辛い決断だった。
堕してからというもの、お腹にいた子供のことを考えて泣いてばかりいた。涙がとまらなかったの。
そんな時、武志がアパートに訪ねてきた。
泣いて寝ていても武志が何を言うのか分かっていた。それが武志のやさしさのつもりだろうけど私には地獄だった。自分の肉体の子供に去られ、武志がさよならを言いに来た。
あの時言葉なんて出せる気力も何もなかったけれど、このまま私を捨てないで、私を一人にしないでという思いでやっと出た言葉が”付き合ってもらえるの”という一言だった。
武志はうなずいてくれた。その後泣き続けたけれど、武志のうなづきが私を救ってくれた。
だからこうして付き合えるのが嬉しかったし、結婚なんてできなくても武志のことを考え続ける事で、星の出た夜、おばあちゃんが言ってた星、私の子供の星に武志も元気だし私も頑張っているからねと言ってあげるの。」
文が星にこだわっていたのはこういう事だったのかと合点はいくが、妊娠していたことの衝撃は収まらなかった。
文の言葉はそこで切れてしまった。声も枯れ、涙が声を押し殺してしまったようだ。
窓の外の闇はガラス窓に僕の顔を映して潜んでいる。沈黙が、古く疲れ切ったシャンデリアの下の僕たちを支配しだした。
妊娠という言葉を、おうむ返しに口から出そうとしたが言葉にならない。声が出なかった。
下を向き、口をハンカチで抑え背中を振るわせて泣いている文の気持ちがぼくの全てを支配していた。
ぼくは文の何を理解していたのだろうか。いや、理解どころか何も知っていなかった。
今まで付き合っていて知ったつもりの文だったが、何も知っていなかったという事が衝撃だった。
声もなく音もない寂寞の沈黙が、重苦しく二人の間を支配している。
暫くはそんな沈黙が続いた。

ふと、どこからかもう一人のぼくの声が聞こえてきた。今までお前は独りよがりじゃなかったか。沈黙は徐々に、もう一人のぼくの問いかけに耳を傾ける醒めた気持ちになっていた。
(借金で苦しんでいる男に結婚の話は来るはずもない。そんな見合いを持ってくる親なんている訳がない。いい女をゲットしてもこんな借金男と苦労することが分かって来てくれる人はいない。
こんな当然なことが理由でぼくは結婚できない、結婚しないと決めて借金を返済することだけがぼくの人生だと思ってきた。)
文の告白を聞いて、こんなぼくを思ってくれている人がいる事を今初めて知った。
それまでは、自分のことしかしか考えない嫌な奴だったのか。それがぼくだったのか。
自分のことしか考えていない嫌な奴は沢山いる。
相手の都合を考えず延々と勝手な長話を電話してくる嫌な奴。
満員電車の停車口で大勢の人が出ようとするのに出口で吊り輪から頑強に手を放さず、出ようとする客の迷惑を考えない嫌な奴。
そんな自分勝手な嫌な奴がぼくじゃないか。
自分の都合で、文の気持ちも存在も半ば否定して来た。そして自分の気持ちを満足させるために文と会い、文を束縛して苦しめてきた。
その上にぼくの知らなかった妊娠、そして堕胎。
ぼくは何をしていたのだ。
ぼくは自問しながらガラス窓に映るいやな自分の顔と向き合うことで心は冷静になっていた。
静寂は、ぼくと文との間の距離に思えた。
アルコールが入っていることが反対に、これまでの自分を冷ややかに見据えている。
文はぼくの子供を堕した。
以前、妊娠して産まないは女性の権利だとおじさんは言っていた。
妊娠したら産まなければならないという、正義をまとった強制からの女性の権利の主張だろう。
男女平等、それは当然の権利として認める。
だけどそんな平等の中で、女性が痛みを伴い子供を堕すのはそれなりの理由があるだろう。
その苦しみを知っているのは女性だ。
男は、その苦しみを理解して、そんな女性の権利を主張しているのだろうか。その意味では、男と女は権利においては平等だが対等ではない。
SEXは簡単だ。でも、その結果として出来た「命」を堕すのは簡単なことではない。
自分の身を削り、苦痛の中自らの血を流し、そして子供は死んでゆく。
胎児にとって、どこまでが人間であり命なのか議論があるが、男と女の愛の結果としての妊娠を考えると、出産、誕生は実はすばらしいものだ。子供にとっても。
その素晴らしい出来事に、ぼくは応えることができなかった。
文は苦しみ、身を削り血を流してぼくのために子供を堕した。
堕ろされた、殺された子供にとってその責任は文なのか、ぼくなのか。
文はぼくの目の前で泣いている。
呼吸をしない沈黙の時間だけが無情に過ぎてゆく。ここにいる僕たちの前を、時計の針がそうであるように、時を刻みながら人の感情を無視して進んでゆく。
文とぼくしかこの世にいないような古びた店内の二人だ。がらんとした空間の中の二人。
文を泣かしたのは誰だ。
そうだぼくだ。子供を殺したのはぼくのせいじゃないか。なんでぼくは、何処までも無責任で来たのだろう。ましてやこうして文を傷つけ泣かせてきたのだ。
もう一人のぼくが耳の奥で叫んでいる。ぼくが文に責められているというより、ぼく自身に責められているようだった。
いつしか涙が目にたまっていたのだろうか、見えるはずの世界がうるんで見えない。ただ、その先にうつむいた文の姿が見えた。
やっと自分の中に感情が沸き起こった。
ぼくは文に声をかけなければならない。でも、何を言えばいいのだ。
それでもやっと言葉が口から出てきた。
「文、ごめんな。なにも知らないで文を傷つけていたんだね。妊娠のことは初めて知ったし驚いた。こんなぼくを許してほしい。こんなぼくだけれど、もし文がぼくのこと嫌いでなければ、結婚してくれないか、ぼくは文のこと大好きなんだ。」
自分で結婚という言葉を出したのにはぼく自身驚いた。でも、好きなのは本心だ。
今まで言えなかったことを、今それを言うことで気持ちが軽くなった。ぼくの負い目を自分で払ったような気持だったからだ。後はどうにでもなる。だって僕たちは夫婦になるのだから。
だだ、文がどう応えてくれるのか。
文は今すぐ応えなくてもいい。ぼくが怖いのは文の返事ではなく、不安に生きてきたぼく自身の生き方なんだ。
「結婚」という言葉に文が驚いたようにぼくの顔を見上げた。そしてまた泣き出した。
店のおばさんがカウンター越しに心配そうに僕たちを見ている。店には入る時も今もお客さんはいなかった。
ぼくは立ち上がりおばさんのところに行った。
「おばさん、コーヒー追加とマロンケーキ下さい。」
このケーキは文が好きで良く注文していたものだ。ぼくはいつも文の喜ぶ顔が見たくて注文していた。
ぼくは席に戻った。文はハンカチで涙を拭いている。そして何も言わなかった。
「結婚と言っても何もできないけど、二人で仲良くやってみようよ。おじさん夫婦のように贅沢は出来なくても幸せにするよ。」
文はハンカチで目を抑えたままうなずいている。
「東京じゃ、星はあんまり見えないけど、星を探して今度文のお腹に宿ったぼくたちの子供に報告しよう。仲良くやっているとね。」
文はまたうなずいた。この後どんなことがあろうが、文がいてくれれば乗り越える、そんな勇気が出てきた。
明日おじさんに会ったら、その他大勢の中のぼくが元気に先頭に立って頑張ることを言ってやるんだ。もう中途半端やウジウジしていられない。

夜中ベランダから布団に入り、つくづくと一日を振り返っていた。一日は早く終わるようだが色々なことがその中に詰まっている。
そんな一日が人をも変える。時の重さを感じる人間でありたい。
布団の暖かさが眠気を誘う。文は明日、荷物を抱えて来るという。


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