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紙の舟 ep.12

電話を受けている先生は、お母さんの相談を聞き、その気持ちを肯定するようにハイハイと応えながら時々教育者としての助言をし、そしてお母さんを励ましながら話を続けていた。
僕はその間、福島さんと同じ境遇だったヘレン・ケラーの自伝を思い出していた。
生後十九カ月で聴力と視力を失い、七歳の時アン・サリバンと出会う。アン・サリバンはヘレン・ケラーに指文字と言葉を教えた。僕にはサリバンが、泣き叫ぶヘレン・ケラーに頭から水をかけて水という言葉を教えたというエピソードしか思い浮かばなかった。
目も見えず音も聞こえないという事、光も届かず音もない深海の海の底の世界で、福島さんの立場に自分を置き換えたとして、僕はどうやって生きていくことが出来るのだろうか。
耳も聞こえないから言葉も覚えられず暗黒の無言の中にいる、たった一人の自分には想像もできない孤独しかないだろう。そこでは、今の自分からは考えられる限り、えも知られぬ恐怖と絶望が襲い掛かる。
そんな福島さんが勉強をしている事、友人たちと会話をしている事が奇跡に思える。
何もできない僕は、ひたすら先生が話す受話器を眺め、お母さんを励ます先生の暖かい言葉に耳を傾けていた。
やがて先生は受話器を置いて、残っていたコーヒーを口に運んで僕と向き合った。
「福島君のお母さんからの電話でした。
素晴らしいお母さんで、あのお母さんが居なかったら今の福島君もいなかったろう。小さい時から涙をのんで厳しく福島君を育てた。だから今でも福島君が色々やろうとしている事にも、自分が育てた事の責任も併せて色々考えている。だからお母さんが考えたり悩んだりすることも良く分かるので、福島君を励ますというより、私としてお母さんを励ましているのですよ。」
そこにも小沢先生のやさしさを感じ、その後に続く電話でのやり取りと福島さんの今後の話に、僕として何が出来るのかを考えながら先生のひとことひとことを心に刻んでいた。
やがて大学のことに話がおよんだ。
「実は、天安門の事件以来、中国に戻った留学生と連絡が取れなくなり、心配しているのですよ。」先生はまた、真剣な顔に戻った。
天安門の事件以前と、その後家族や兄弟を心配して中国に戻った留学生の誰一人として連絡が取れないでいるというのだ。
北京も地方も同じで、電話も通じず手紙も出したが返事が来ないという。
六月の天安門事件のあった翌日、僕は江に訊ねた事を思い出していた。
「江さん、天安門で大変な事態になっているようだね。
中国のニュース、新聞ではどんなふうに報道されているの。」
「新聞は何も報道しないよ。いつもそうよ。だから地方の人は何も知らないよ。」
政府、共産党に都合の悪いことは報道しないとしても、天安門には地方からの学生たちも結集していたから、学生たちや市民、労働者にもそれなりの情報があり、報道はされていないが地方でも決起した人たちがいたと思う。
そんな彼らに対しては、地方政府も攻撃を加えた可能性もある。
大学生、知識人階級に対しての差別的な対応を考えると、帰省した先生の門下生の留学生に対する安否確認は心配などでは済まなくなる。
「連絡を取る方法が無いのが一番つらい。中国に行って探したいが、この状況では、簡単に行けそうにもないからね。」
先生はため息をつきながら、じっと天井を見ていた。
お互いコーヒーを飲んでいるのかウイスキーを飲んでいるのか分からないまま話が続いていた。
色々なことを話しはしたが、頭の中で整理も出来ないまま、様々な話題だけが飛び交っていた。
ふと気が付くと、かなり時間が過ぎていた。明日も朝出勤は早い。
急いで最終バスの時間を聞き、この場を失礼して帰る事を先生に告げた。
支度をして、玄関で靴を履きながら江の面接の相談をした。
「いつでもいいですよ。出来れば大学ではどうですか。今度の木曜日、午後からゼミがありますので、その日で良ければ連れて来てください。」
先生は外まで出て、姿が見えなくなるまで僕を見送ってくれた。
今日は江のためというより、ぼく自身にとって素晴らしい日になった。
まだ暖かさが残る夜の陰りの中、バス停までの足取りは軽かった。

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