見出し画像

紙の舟 ep.10

都立大学の受付によると、先生は学校にいるとの事でそのまま先生に電話を繋いでもらった。
「はい、小沢です。ご用件はどんなことでしょう。」
先生は、どこの馬の骨とも分からぬ僕に声を掛けてくれ、そして一方的に要件をがなり立てる僕の話を、じっと聞いてくれた。
僕にとっては今まで会ったことのない、不思議な大学の先生だった。そして
「大学院の入学に関しては分かりました。せっかく電話もいただいて、それでは入学して勉強したいという当人に、一度合わせていただけますか。」
僕がどれだけの時間、江に関して話したのか覚えていない。幾らか質問を受けた事も内容さえ覚えていない。最期に、会ってもらえるという返事を聞いた時には天にも昇る心地だった。
曜日にもよるが、ゼミがある時には大学で、ゼミがない時は自宅であってくれるとの事で、江の返事を聞いた上で連絡するという話になった。そして直ぐに先生の自宅の電話番号を手帳にメモした。
大学の教授という堅苦しさは微塵もなく、隣のおじさんと話をしているような気楽さを感じた。ただ、話の端々に僕が想像する以上に外国人が日本で学ぶことの難しさや日本政府の対策・政策の不備を指摘してくれる話し方に、信頼することの出来る人という最大限の安心感を得ることができた。それは彼の持つ包容力と言い換えてもおかしくない人でもあった。
電話を終えて早速、僕はホールに下りて江に事の事情を話した。江は喜んだ。だが、会いに行くという話では返事を渋っていた。
「いつ時間が空くの?。必要であれば、シフトは僕が調整するよ。」
「うーん。わたしも忙しいから、ちょっと待って。」
江の望む大学院の話、そして大学の先生が会ってくれるという事で、僕は本人が喜ぶことを期待していたが反応は鈍かった。
結局その日は面会の日を決める事ができなかった。江にとって良い話のはずだが、悩む理由が分からないままだった。費用の不安があるのか。このような環境から逃れたい方便だけなのか、その真意は分からないままだった。
次の日も同じ質問をした。返事があいまいだ。
夜、小沢先生に電話を入れ早急に伺う日を決めるという話をして、暫くは江との話は訪ねる日決めに終始した。
やっと江から「二十三日ならいいよ。」という返事をもらった。
早速小沢先生に電話を入れ、自宅に伺い先生の希望する時間を受け取った。
翌日、江にその話をした。
「二十三日の一時に待ち合わせしよう。場所はJR池袋の駅のホームでどうだろう。」
池袋にしたのは、最寄りの駅ではパチンコ客や知り合いが多く、二人で会うと他の従業員のやっかみを含め誤解を生じやすいからだ。そんな心配をしながらの待合せ場所決めだった。
先生とは二時の約束だったので、時間の余裕を考えての時間だった。
その前日まで僕にも不安があった。池袋の駅やホーム番号が分かるのだろうか。もし来なかったらどうしよう。それは言葉の理解も含めて本人のやる気にかかっている。
僕の江への確認作業は終礼まで続いた。
僕は毎日カウンターに入り、ホールコンピューターに向かい合う。上に乗っている紙の舟はいつも静かに佇んでいた。ホールの喧騒の荒波に、静かに身を浮かべていようだ。何故か心が落ち着く。
その日の釘調整も終え、ホールの照明とパチンコ島の電源を落し、カウンターの前を通って、奥のホールコンピューターにある紙の舟に軽く別れの挨拶をしてパチンコ店のシャッターを下ろした。
翌日、晴れ渡った青い空の下、僕は早めに池袋に向かい、待ち合わせ場所のホームに立った。三十分前だった。その日は暑い日差しがホームにも照り返していた。
周りを見渡しながら一時の時間が来た。江の姿が見えない。気は焦ったが、焦ってもしょうがない。何かあったのだろうか。連絡先の電話番号は控えていない。
他のホームを見渡しながらその後三十分間待った。その間に使った心配の気苦労も頂点に達し、激しい疲労感に襲われた。このままでは先生との約束の時間に間に合わない。
僕は走って東武電車に乗り込み指定の駅で降り、急いで駅隣りの公衆電話で小沢先生に電話を入れた。
江が来なかったことは言えなかった。いくら何でも江が来なかったので帰りますとは、無責任に思えたからだ。反対にどのように謝るのかが頭の中を去来していた。小沢先生に言われたバスに乗りながら、どのように謝るべきかと考えたが、何の言葉も思いつかなかった。
頭が空になりながらバスの窓辺に座って広がる外景を漠然と眺めていると、周りの緑の多さに圧倒される。
それは、東京にこんなに緑と森があったのかという驚きだった。
車窓に移る木立の青葉、空いた窓から入り込む新鮮な空気、東京とは思えない田舎の中をバスがコトコトと走っている姿は、先ほどまで都会の雑踏の中で呻吟していた自分の姿をあざ笑うかのような妙に倒錯した世界を感じていた。
心地良い空気を吸って、先生に謝ってそのままバスで帰ってもいいだろう。吸った空気が肺を一巡させれば、今日の嫌な気分を吐き出して新しい僕に成りそうだ。木々の香りや草木の臭いを運ぶ風には、独りの人間心の隅に付いたごみのような気持ちを吹き飛ばしてしまう力があるようだ。
僕は何も考えることなく、ただ窓に寄り掛かり、茂る森蔭と小鳥たちの合奏を目と耳とで楽しんで過ごした。二十分ほどの時間だったが、その場所を離れるのが惜しい気持ちでバス停に降りた。
電話で案内された先生の自宅までは、さほど遠くない距離だった。
舗装された道路を曲がり小高い道先に目をやると人影が見えた。手を振っている。小沢先生だ。僕は小走りに先生の元に走った。見ると手に花を持っている。
先生は僕を確認すると声を出した。
「あれっ、一人かい。」
「申し訳ありません。駅で待ち合わせたのですが、来なかった。そのままでは申し訳ないので、直接お詫びして帰ろうと思ってきたのです。」
「そうか、じゃあこの花は必要なかったね。ショートケーキも買ってあるが、二人で食べようか。」と、先生はそのまま僕を自宅に誘った。
「この直ぐに、あの大塚久雄先生もいるんだ。」と先生は自慢げに話す。先生も有名人なのだが、そんな気配は微塵もない。学生と話しているような感覚になる。
「君、足元悪いから気を付けて。そして建物も古いから気を付けて。」と中に案内してくれる。
確かに古い家ではあるようだ。入口の板張りの広間にある本棚は本で埋まり、床自体が傾いている。そのまま入ると突き当りの窓は角枠取りが狭く、大正時代の建築のもののようだ。
僕はその窓の前で、左の小部屋に案内された。
「ここに座り給え。花はこの小瓶にさして、ケーキは今持ってくるから。コーヒーは飲むかい。」
「はい。」
「君は、ウイスキーは飲むかい。いや、私はコーヒーにニッカレッドのウイスキーを入れて飲むのが好きなのだが。君もやるかい。」
「は、はい。」コーヒーにウイスキーを入れて飲むというのは初めての経験なので、先生の好みを知ったようでうれしかったが、ウイスキーをどの程度入れるかの不安はあった。多いと、今日の成り行きで暴れそうだったが、尊敬できる先生と同じ飲み物を頂ける嬉しさが気持ちを叱咤している。
先生は花を小瓶に立たせて傍に置き、皿にケーキを乗せ敬うように持ってきた。そしてコーヒーを入れ、ウイスキーを注いでくれた。
主客が逆転したような舞台の幕は開けた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?