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紙の舟 ep.1

一九八九年五月。
簡単な休憩を終えて、僕は三階から階段を駆け降り、パチンコ店の二階の事務所に向かった。
事務所を照らす電球は切れて、その一角だけが薄暗くなっている。
闇に沈んだドアの前で、ふと時計に目をやると、針は午後七時を指していた。
僕はいつものように、勢いよくドアを開いた。
明るい蛍光灯の光の中に、バチンコの店長が所在無さげに立っている。側に見知らぬ女性が佇んでいた。
僕は軽く会釈をして、奥にある水道で顔を洗いに足早に二人の前を通り抜けると、店長が後ろから声をかけてきた。
「ああ。早瀬さん。丁度良かった。面接の人が来ているんだ。」
このビルで営業している喫茶店と焼肉店の店員募集の事が思い浮かんだ。と同時に、相手が中国人である事も分かった。チラッと見やったその相手が、中国女性がよくしているオカッパ頭だったからだ。このところ中国人、韓国人の応募が多い。そしてほとんどが、日本語を話せないでやって来る。
僕は、またかという思いにかられていた。
「募集はしていますが、希望は早番ですか、それとも遅番?」水道の水で顔を洗いながら訊ねた。すると相手は、
「夕方からなら、大丈夫。」と、答えた。日本語は、しっかりしていた。
喫茶店も焼肉店も人手は欲しい。特に喫茶店は今日新規にオーアンしたばかりで、人の補充も必要となっている。
僕は勝手に喫茶店の応募と思い込んでいた。この間入った新宿の喫茶店も、働いている人は全員外国人だった。
「中国の人なんだよ。」店長が切り出した。
「うちは、中国の人は募集していないし。早瀬さんが降りて来るちょっと前来たばかりなんだ。どうしようかと思っていた矢先なんだよ。」
店長は困ったように、後は僕に任せたという顔をしている
「この人が、このビルの全体を管理している早瀬さんだよ。」
と、店長は僕を紹介し、女性はペコッと頭を下げた。
今までもこの店舗、そして他の店でも中国人は雇ったことはあるが、言葉が通じない上に、習慣上の違いでドラブルが多く、その結果会社として外国人、特に中国人は雇わないという方針であった。だが人手不足であり、その対応には苦慮していた。
「見たところ就学生だと思うのだが、言葉の方、大丈夫なのかな。」
タオル?で顔を拭きながら聞くと、
「言葉大丈夫よ。日本語、分るね。」
真剣なのか、図太いのかそのひたむきさは、ただものではない。僕は、話を続けた。
「で、募集には時給六百五十円になっているが、最初は見習いとして六百円から始めています。」
すると相手は、キョトンとした顔で-
「募集は、八百五十円だったよ。」と、言う。
店長と僕は、顔を見合せた。パチンコの応募だ。
確かに、パチンコ店のカウンター募集もしている。募集ポスターにはパート時給八百五十円で出している。新聞にも募集を載せている。
先日入ったばかりの主婦は覚えが悪く馘にする予定で、その前に入った女性も周りとの折り合いが上手くゆかず、すぐ辞めてしまった。
募集はかけているが、外国人を雇う考えはまるで無かった。
僕はしばらく言葉を吞んでいた。店長は口を開けたまま相手を見ている。
大胆というよりは、無知なのだ。
パチンコのカウンターは、煩雑な作業が多い。それでなくとも、うちの店の場合、ポス導入等他店と違う高度な仕事となっている。
そのことと又、偏見を持たれやすい風俗関係ということもあって、慢性的人手不足のため、この業界の時給・給与は高めになっている。お金が欲いのは分かるが言葉の理解を含め、外国人にできるのか。
いち早く、店長が口を開いた。
「たしかにパチンコの方も募集しているが、カウンターに外国人を入れた事は無いんだ。
カウンターは指令室にもなっていて、色々な指示や会話が飛び交うからね。外国人ではねー。」
ところで外国人といえば店長も在日外国人だ。この会社の幹部は事務を含め、皆在日朝鮮人である。日本人は僕一人だ。
もっとも仕事の上では自分が日本人であることを意識することは、ほとんど無い。ただ、この場所で、ここの人にとって、中国人は「外国人」なのだ。
ちょっとした沈黙があって、彼女は口を開いた。
「私、真面目に動くよ。中国で学校の先生していた。」
学校の先生、と聞いて僕と店長は顔を見合わせた。
先生が聖職とは思わないが、なにがしかの常識は持ち合せているという錯覚が僕たちにはある。
それは特に、うちの喫店で働く女子アルバイターの不真面目さに、頭を痛めていたことに原因があるだろう。この子らの常識とは何なのだと、いつも僕は思っていたからだ。
時間にルーズであるばかりでなく、仕事もろくにしない。外で遊び果てた後に妊娠してトラブっている。
ここにいる就学生の真面目な顔を見ていると、ひょっとしてという思いに駆られた。
店長も、しっかりとした日本語を聞いて、これは、という気持ちになったのだろう。面接を始める風に、自分のデスクに坐った。この面接はパチンコ店のものだ。被にも資任は掛かってくる。
僕もおもむろに自分の椅子に腰を掛け、相手と対面して話を聞くことにする。
まず、僕から切り出した。
「日本に来て何ヶ月?」
「八ヶ月ね。昨年の八月に日本に来た。池袋の日本鋙学校に行っている。お姉さん日本の人と結婚して、日本に来た。お姉さん、コンピューターしている。川口に住んでいる。」
「川口じゃ地元だ。通って来れるね。」
「私、下宿ね。池袋にアパート借りている。日本語学校のそばね。」
「君の年齢は?」
「二十八歳。」
ニキビが残っているので二十八才歳にしてはもっと若く見える。化粧はしていない。それが一層、純朴そうに見えた。」
「ところて、さっき学校の先生をしていたと言ったね。」
「上海師範大学を出て五年間、中学と高校の先生していた。」
「専門は ?何を教えていたの?」
「物理学ね。」
僕は、店長の顔を覗いた。
「理系でしたら・ポスとかコンピューターの操作も楽に理解できるのじゃないですか。」
「うーん。」と店長は腕を組む。
やおら手を解いて、子供を諭すように訊き出した。
「パチンコ、分かる? やったことある?」
「パチンコ?分からない。でも大丈夫よ。ちゃんとやるよ。」
店長は、頭を抱えていた。振り向くように僕を見て
「お客さんの注文を、ちゃんと理解できるのか、この人。中国人は約束守らないからな。」と呟く。
「大丈夫、私、約束ちゃんと守る。安心していいね。」
こういう会話ができるのも、中国人だからだろうか。
僕は、うちのパテンコ店のシステム、早番 遅番の完全Ⅱ部制・時間、仕事内容を説明していった。彼女は、昼間は学校で、遅番でなら仕事ができるという。
僕と店長の質問にもはっきりとした日本語で応えていたが、店長は終始不安そうだった。 一体、信用できるのかー、それが店長の気持だ。
大陸から来た多くの中国人を見て来たが、皆途中で辞めたり、馘になったりしている。
僕は店長に聞いてもらうつもりで、彼女に話しかけた。
「留学生、特に中国の人とは、トラブルが多いんだ。それは、彼らに責任があるというより、生活、習慣の違いによると思う。言葉も含めて、日本のシステムを理解しないで仕事についていることが、トラブルの元だ。
うちの会社でも、原則として中国人は雇わない方針できたが、君が真面目に働いてくれるのなら、今は決められないが、社長と相談して返事をしたいと思う。
仕事の内容は君の努力次第で理解できるだろうが、会社の決まりには、ちゃんと従ってもらいたい。休む場合は、あらかじめ届けること。無断で休んだり遅刻はいけない。」
「約束守らんと、金払わんからな。」と、店長が言う。
歯車のかみ合わないような会話を聞きながら、僕は机の引き出しを開け、一束の書類を彼女に渡した。
「ここに中国語に訳した『生活・労働手帳』という原稿のコピーがあるから、君にあげよう。日本での生活や就労の事が書いてある。
もし採用されたなら、最低これだけでも理解した上で、仕事についてもらいたい。不採用の場合でも、何かの役に立つだろう。」
この労働手帳は、僕の友人たちがボランティアで英語版から翻訳し、小冊子にしようとしている原稿だ。
僕はまず、うちの現場で使ってみようという気持ちだった。
彼女は、そのコピーを受け取ると、食い入るように読んでいた。
「ところで、名前を聞いていなかったね。」
「江小薇です。」と言って、手渡した紙片に名前を書いて僕にくれた。
大きな目をした、可愛い女性だった。


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