幼少期スペイン語ペラペラだった日系人が日本に来てただの日本人になった話

私は南米のパラグアイ生まれの日本人です。


そんな私ですが、父が転勤族であったため、私が1歳を迎えてすぐにパラグアイから違う国に引っ越すことになりました。


父に連れられ私たち家族は国を転々とし、最終的に日本に落ち着くことになります。
幼少期スペイン語がペラペラだった私ですが、スペイン語圏の生活も、その後の日本での生活も大変なものでした。

今回は私がスペイン語を話せる男の子からただの日本人の男の子になるまでを書かせていただきます。

パラグアイからエクアドル、エクアドルからスペインへ

画像1

パラグアイを離れた私たち家族は、エクアドルで約1年過ごすこととなりました。
住んでいたのはエクアドルの首都キト。1歳から2歳までの間なので私はここでの生活をほとんど何も覚えていません。

画像2

この町は標高が高かったので、母曰く、スーパーのポテトチップスの袋が気圧のせいでいつもパンパンだったとか。

1年というのはあっという間なもの。

すぐに再び転勤となり、私たちはスペインへと引っ越します。

次に父の勤め先となったのはスペインのリゾート地テネリフェ島。

海の綺麗なリゾート地です。

画像3



ここで私は初めて幼稚園に通うことになります。

しかし、ここで初めてアジア人としての洗礼を受けます。


スペインの幼稚園のアジア人いじめ

南米生まれでスペイン語も話せた私でしたが、両親ともに日本人である私の顔はアジア人そのもの。

スペインの幼稚園生たちにとってはそんな私が珍しくてしょうがなかったのだと思います。

私は生まれて初めていじめを受けました。

自分がいじめられていると認識したのは、クラス全員で整列して校舎を移動中の時でした。

髪の毛を後ろから引っ張られたのです。


痛い!と思って振り返ると、1人の男の子がニヤニヤ笑っていました。

あまりの衝撃と混乱で言い返すことができなかった私は再び歩き始めるのですが、すぐにまた引っ張られるのです。振り返ると、さっきの子のさらに後ろを歩いていた男の子が私の髪を引っ張っていたのです。

その後すぐに私は大声で泣いてしまい、先生に連れられ別の部屋に。

電話を受けて私を迎えに来た母は私に事情を聞き、先生に髪を引っ張った男の子とその親を呼べと烈火の如く怒っていたのを覚えています。

しかしこの一件は単なる一例に過ぎず、私はこの後もいくつかのいじめ(?)を経験することになります。

アメリカにおいて、白人は白人と、黒人は黒人同士でコミュニティを形成するそうです。しかし、このスペインの島にアジア人は私ひとり。

結局、友達と言えるような存在ができないまま月日は流れていきました。


スペインを離れ日本へ でも私は日本語が下手だった

私が5歳を迎えてすぐに、我々家族は日本に帰国することになりました。


父の転勤ばかりの仕事もようやく落ち着き、今後は日本で暮らすことになったのです。


これで私はアジア人いじめ(?)から解放されることになったわけですが、ひとつ問題がありました。


今までスペイン語圏の国に住んでいた私は日本語がほとんどできなかったのです。
おはよう、ありがとう、おやすみなさい。
この程度がやっと使える程度で、日本語の会話なんてサッパリでした。


これが原因で日本の幼稚園に通うことになった私は、
ここで生まれて初めて『言葉の壁』にぶつかることになります。



ただでさえ転校生で目立つというのに、日本語ができないという要素まで加わってしまった私。
馬鹿にされたり話しかけてもらえなかったりという目にあってしまいました。


そこで私の脳は、「スペイン語など話してはいけない(話せてはいけない)」と判断してしまったのでしょう。



ある日突然、私はスペイン語が喋れなくなってしまいました。



ただの一言も、挨拶の言葉すら綺麗さっぱり忘れてしまったのです。


アイデンティティを失い、ただの日本人となった


スペイン語が話せなくなったことで、私には多くの日本の友達ができました。
しかし、スペイン語が話せるというスキルをこの時に完全に失ってしまったのです。



スペイン語を話せなくなったことでパラグアイに居る私の祖父や祖母、叔母や叔父、いとこたちとも会話ができなくなってしまいました。

これは非常に勿体無いことです。


ダラダラとした思い出話にお付き合いいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?