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パラリンピックへの批判をしよう

パラリンピックを論じる多くの文書は、その根本問題を無視している。本記事では、パラリンピックの根本問題を論じる。


パラリンピックの問題点

パラリンピックに関する問題点は次のとおりだ。

1.理念
理念は正当か?
少なくとも、理念を広めてはいない。テレビでの報道は、「障害者、すごい!」である。

2.非日常性
障害は、日常で発生するのであるから、非日常で活躍することには意味は無い。

3.公平性
パラリンピックでは、社会的格差(装備する用具の技術の差など)が、露骨に歴然で、可視化してしまっているにも関わらず、不公平性についてな~んにも問題にしない。

4.議論のあり方
競技が重要なのではなく、日常の生活の向上とそれに向けた議論の方が重要である。
パラリンピックなど、無くても、何も困らない。何故、有らねばならないのか?


パラリンピックの理念

「やった者勝ち」「やりたいから、やるだけ」という考え(何の理念も無いこと)が見えてしまうほど、パラリンピック関連の報道やサイトは無残だ。

「アスリート、すごい!」「障害者、すごい!」の一点張りだ。

小学生や中学生程度までを視聴者とするなら、この一点張りで持ちこたえられるだろう。
アスリートは頻繁に「子どものため」と言うが、子どもは疑問を持たないし、反論をしないし、刷り込み易い(すりこみやすい)ためだ。

しかし、高校生以上になってくると、「どこが?」「何故?」という知的好奇心や疑問を持ち始める。大人を対象にするならば、理念が重視される。

誰しも抱く疑問は「パラリンピックは公平なのか?」ということだ。これは、後述する。

税金を消耗して実施するため、公共機関が関わることに、どのような意義があるのかという理念は重要だ。

パラリンピックの公式サイトは次のとおりである。

パラリンピックは障害者に特化したイベントであるが、何故、特化しているのか、という考え方は(個々人の考えに依存するのではなく)公式に丁寧に説明・表明すべきである。真に多様であるのであれば、障害者と健常者の混合が考えられ、それに向けた取組みがあってしかるべきだ。

サイト内を探してみると、オリンピックとパラリンピックの両方を含めた形での理念はあるようだ。

東京2020D&Iアクション -誰もが生きやすい社会を目指して-」を公表 2021年8月18日 東京2020組織委員会

D&Iは、多様性と包摂(ダイバーシティ diversity &インクルージョン inclusion)を意味する。

以下、逐次意見を述べる。

東京2020D&Iアクションの趣旨
東京2020大会は、その大会ビジョン「スポーツには世界と未来を変える力がある。」の基本コンセプトとして「全員が自己ベスト」「多様性と調和」「未来への継承」を掲げています。「東京2020D&Iアクション -誰もが生きやすい社会を目指して-」も、これらの考えに基づいています。


「スポーツには世界と未来を変える力がある。」

これは、スポーツ関係者が抱く、自分にとって都合の良い妄想だ。
むしろ、スポーツの人気は、今後、長期的には、下がるだろう。
下がるのを見越して、税金でスポーツを延命させようとしている(推測)。
スポーツよりも、もっと楽しいコンテンツは、今後、どんどん創造されていくことは明らかだ。未来において、スポーツは、相対的に、つまらないコンテンツ、終わったコンテンツになるだろう。
オリンピックの本音の意義は、スポーツを税金で維持し延命させることだ(推測)。

「全員が自己ベスト」

自己ベストと言いながら、世間では、他者との比較、勝ち負けや金メダルにこだわった報道がされているのが実態だ。

「多様性と調和」

スポーツの中だけでの「多様性と調和」だ。
スポーツの外側(スポーツを愛好しない者、諸般の事情によりスポーツができない者)には適用されない。
スポーツには競技ルールが適用されるので、そのルールの範囲内で「多様性と調和」があるのは当たり前だ。人類にとって普遍的な意義を述べているのでは無い。

「未来への継承」

将来性の無い、スポーツというコンテンツ(終わったコンテンツ)を若い世代に継承することは止めた方が良い。

誰もが生きやすい社会

スポーツを掲げた時点で、「誰もが生きやすい社会」などありえない。スポーツの外側(スポーツを愛好しない者)には適用されない。

世界各国を招いて開催することもあり、コロナ禍や亡命など、深刻な問題が多岐に渡り生じた。

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混迷ミャンマー 軍弾圧の闇に迫る」 2021年8月22日放送 NHK
新国立競技場前のオリンピックモニュメントにて

それを承知の上で、東京2020D&Iアクションを設けたのである。
にも関わらず、オリンピックの公式サイトでは、競技や大会だけに限定した話題しか提供しない。

「誰もが生きやすい社会」を実現しようという意思が無いことは明白だ。


東京2020D&Iアクションは、美辞麗句を並べているので、一見すると良さげに見えるが、スポーツが前提になっていることから、一部の人達のためのものであって、人類の普遍的意義を述べたものではなく、税金で維持する価値はない。


パラリンピックの意義が書かれてある文書を見つけた。

公益財団法人 日本財団パラリンピックサポートセンター(略称:パラサポ)がある。
最高顧問は、森喜朗さん。特別顧問 小池百合子(東京都知事)さんなど、政治系の人達が目立つ。評議員として安倍昭恵さんもいたりする。(2021年8月現在)。
学校・企業・自治体等でパラスポーツの普及活動、パラリンピック教育を展開している。

この財団に「パラリンピック研究会」がある。このサイトは"Not secure"の状態なので、軽んじられていることが分かる。

パラサポが、2017年5月27日にシンポジウムを開催した。その報告書「パラリンピックと共生社会」がある。

ここで、遠藤利明さん(また、政治家!)が、パラリンピックの意義について、次のとおり述べている。

パラリンピックは、様々な障がいのあるアスリートたちが、互いに多様性を認め合い、それぞれの個性や能力を発揮し、活躍する、世界最高峰の国際競技大会です。競技の成績だけでなく、パラリンピックのアスリートたちの勇気や強い意志に触れることにより、社会のバリアを解消し、一人一人の意識や社会の仕組みを転換することで、誰もが活躍できる社会を実現することは可能であるという気づきを与えてくれます

何故、世界最高峰である必要があるのだろうか?
「気づき」という主観を「与えてくれます」。得られるものが、あいまいなイベントだ。
など、突っ込む箇所が多い発言である。
パラリンピックが存在しなくても、誰もが活躍できる社会は、実現すべきだ。

意義を述べたかのように見せておきながら、内容は無い。


日常性と非日常性

障害者は、社会の側に存在する障害が障壁となっているため、障害者という位置にいる。

障害者が、障害者であり得るのは、日常世界においてである。

パラリンピックでは、障害が除去された環境(非日常性)の中で勝敗を競っている。

非日常の世界(パラリンピック)で、いくら活躍や勝利をしようが、そんなものは、日常における障害とは無縁だ。日常世界における障害者解放につながると思い込むことは、誤っている。

障害は、冷徹に、外部からの強制で発生する。
この状況を、健常者は共感できるわけがない。

テレビで、シワクチャになった顔や、泣いたり喜んでいる姿などを見ると、その情緒は伝わってくる。報道業者による演出効果もある。
これは情緒が一時的に動いただけであり、映画を見て感動するのと同じだ。障害者への(知性のある)理解ではない。
テレビのチャンネルを切り替えれば、別のコンテンツによる感動が待っているだけだ。

広告・宣伝会社は、これらの感動はすばらしい、と持ち上げてくる。
現代社会では感動も消耗品になっているのだ。生身の人間が人生をかけて、消耗品の駒(コマ)になることはやめた方が良い。

楽しむという感性の無い視聴者や感動を受け取れない者からすれば、意味の無いイベントだ。
社会的格差を見せつけられただけだ。
コロナ禍ということもあり、アスリートとの不平等性を認識してしまう。

パラリンピックで障害者の日常が良くなるかもしれないのだが、パラリンピックが無くても社会は良くなっていくのかもしれない。これのエビデンス(因果関係の根拠)が不明だ。
選手を強化する時間とカネがある(非日常世界で感動を与えられる)のであれば、その資源を直接的に日常世界の改善(実際に障害が除去されること)に使った方が有意義である。


以上の筆者の考え方に同調したとすれば、日本の社会の主流派の考え方に反対したことになる。
私としては、在日朝鮮人問題の研究者の次の言葉を読者に贈ろう。

マイノリティがアイデンティティを形成するには、周囲との差異を引き受け
ざるを得ないのだから葛藤含みである。

「インクルーシブな教育と葛藤 ―大阪の民族学級の事例から」
掲載誌『未来共創』第7号 p135-p151 刊行年 2020-03-31
山本晃輔(やまもと こうすけ) 大阪大学大学院 人間科学研究科 附属 未来共創センター
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/76143/

この山本さんの言葉の内容は、言葉を変えて、ずっと以前から言われ続けてきたことだ。簡単に言えば「少数派として自律するのは苦労が多いよ」ということだ。

何故、苦労が多いのか。
それは、多数派が、な~んにも考えずにコトを進めていくからだ。多数派には、考えることは必要ではない。仲間になって群れれば良いだけだ。

冷徹にも少数派であることを余儀なくされた者は、考えることが必要になり、何かを主張しなければならない。その主張の表明時に社会的葛藤が生じる。

障害者には、パラリンピックという、公共の活躍できる場を与えられたのだが、それは残念ながら非日常の世界である。

障害があることを理由として輝く必要など無い。ただ、普通に、日常生活を送れれば良いのだ。

山本さんの言葉の真実性や重みを考えると、東京2020D&Iアクション(東京2020組織委員会)で使われた、ダイバーシティやインクルージョンという言葉が安っぽいことがよく分かる。

障害者であるからこそ、究極の多様性保持者であるからこそ、一層、精神面での自律が必要ではないかと、筆者は考える。


パラリンピックにおける公平性の確保

パラリンピックでは、障害の格差が生じないように、そして、競技の公平性を確保するために、競技ルールに補正がなされる。

例えば、

視覚障がい者を誘導する伴走者の参加や各種音声ガイダンス、聴覚障がい者への競技スタートの合図の方法など

この補正は、専門家(公認資格を持つ「クラス分け委員」)が行う。

「パラリンピックと共生社会-「公平性」のための「ルール」づくり」
ニッセイ基礎研究所 土堤内 昭雄 2016年9月13日


公平性が確保されたということは、理論上は、全員が、同一のスタートラインに立ったということだ。

しかしながら、そもそも、そんなことをする意義は何なのだろうか。

障害者は、完全に、多様だ。個人毎に多様だ。多様性の極みだ。

多様であれば、各種能力に差が生じるのは当たり前だ。

パラリンピックでは、この多様性(能力差)を補正して、「公平性が確保された」状態にする。そして、競い合う。

理念では「多様性を認め合う」と言いながら、競技に補正を加えて、公平性の確保という名目で、統一化を図る努力をしている。

多様性を本当に認め合うのであれば、補正などせず、ありのまま戦えば良い。

そうすれば、競技で負けてしまうことになるだろうが、負けであることも、多様性を表現したものだ。なので、勝利やメダルには、何の価値も無い。

そもそも、競技ルールに従う、ということに、障害者にとって、無理がある。

障害者は、外部に存在する規制が原因となり、障害者になってしまったのだ。

そうであるから、パラリンピックにおいても、統一的に順守しなければならない競技ルール(外部規制)を撤廃しなければならない。
これが、本来の、障害が解放されたパラリンピックのあるべき姿だ。

しかしながら、競技ルールの無い競技などは、存在しえないのだ。

ゆえに、パラリンピックが存在すること自体が矛盾しているのだ。

「負けであることも多様性だ」と認めてしまえば、努力をする意味が無くなるだろう。
それで良い。
高い確率で、多くの障害者は、パラリンピック競技でメダルを獲ることはできない。そもそも、勝つことに意味は無い。

勝ってどうする? - しょせん、非日常の世界だ。
他者に勇気を与えたいのか? - 他者は他者だ。供与と授受の関係が不確実だ。
誉めソヤされるのがうれしいのか? - 精神面で自律することをお勧めする。

障害者は、他者と何かを競い合う関係性には、全くなじまない。
むしろ、相互補完関係の方がなじむだろう。
この相互補完には、意見・批判をすることも含まれる。補完をするためには、自己や他者(第三者を含む)を補正する必要が生じることがあるためだ。

競技能力を高めるには、それなりの練習や試行錯誤が必要だ。そして、それなりの時間や経費が必要だ。
この時間・経費を拠出できなければ、現実問題として、能力を高めることはできない。

つまりは、資金調達や最新鋭の装具等があるかどうかといった、アスリート間の社会的格差が競技結果に反映されることになる。

社会的格差が勝敗を決めている現実は、五輪の理念に反しているのではないだろうか。

こんな当たり前のことを、パラリンピックでの感動は、悪い意味で、忘れさせてくれる。


議論のあり方

以上のとおり述べてきた意見は、誰でも思いつく発想だ。
でも、何故か、この考え方を表明している例は無い。

この理由は重要だ。ここが問題なのだ。

その理由は、スポーツの推進にはスポンサーがいて、カネを出し、彼らの都合の良いように、主義・主張を広告・宣伝するからだ。
財源には税金も使われており、日本国民は、オリパラやスポーツを支持するように教育される。

パラサポの例にあるように、背景には、多くの政治家が動いている。

財源豊かな多数派であるため、多数であるという理由で、権威が増し、賛同者が多くなる。


私の考え方には、誰もカネを出さない。少数派とも呼べないくらい、孤立した考え方かもしれない。
読者の皆さんは、仮に、私の考え方に賛同して頂けるのであれば、「スキ」をして欲しい。結果は、「やっぱり、少数派だね」だろうけど。


以上

#パラリンピック #東京五輪 #障害者 #東京オリンピック中止 #東京オリンピック