見出し画像

読書感想文:『セカンドハンドの時代ー「赤い国」を生きた人びと』 ーなぜ、プーチンは〈西側〉を憎むのか

 2015年にノーベル文学賞を受賞した、ベラルーシの作家スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの2013年刊行作だ。

 日本では、アレクシェーヴィチといえば『チェルノブイリの祈り』がもっとも読まれているかもしれない。私も『チェルノブイリの祈り』には格別の思い入れがあり、なにを手放しても最後まで残す本の一冊ではあるのだけれど、アレクシェーヴィチの著作のなかで一冊を選ぶとすると、この『セカンドハンドの時代』だ。

(『チェルノブイリの祈り』は増補改訂された完全版が昨年出版され、入手はしたもののそちらはまだ読めていない。)

 アレクシェーヴィチのあと2冊の著作、『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争』もすべて手法は共通していて、膨大なインタビューを積み重ね、それらを編集・再構成するというスタイルだ。

 そう書いてみると、単純なやり方ではあるのだけれど、積み重ねたインタビューの量といい、聞き取られた内容といい、編集の仕方といい、どうやったらこうできるのだろうか、本当にひとりで作業しているのだろうか、と疑ってしまうほどだ。
 インタビューは、誰にでもできるようでいて、相手から、とおりいっぺんでない話を引き出すのは実は簡単ではない。自分自身が被災地とよばれる場所に暮らすことになって、インタビューのまねごとをしたり、あるいはされたりもする機会は多くあったのだけれど、実感するのは、同じ人であってもインタビュアーによって話す内容はまったく違ってくるということだ。

 それから考えると、アレクシェーヴィチの聞き取っている内容は、ひとつひとつのエピソードが信じられないクオリティだ。そこには、たんに「聞き出す」というインタビュー技術を越えた深い共感があるのだろうけれど、これだけの人数のこれだけの内容の話を共感をもって聞き続けることができる精神の強靱さには、驚嘆を覚えるしかない。(アレクシェーヴィチの聞き取る話のなかには、読むのも辛くなる壮絶な体験談が多く含まれている。彼女は信仰深い人であるようなので、そのことが支えになっているのかもしれない。)

 さらに、その質の高いインタビュー内容を編集して積み重ねることによって、戦争や原発事故、ソ連崩壊といった巨大な歴史的な出来事が人びとによってどのように受け止められたのかを、見事に浮き彫りにしている。ひとりひとりの証言を重ねていきながら、人びと(おそらく「社会」と呼んでいい)の情動のうねりを描き出すその手法は、まったくもって見事だ。

 どの著作も素晴らしいけれど、なかでも、圧巻とよべるのが『セカンドハンドの時代』だ。

 ここでアレクシェーヴィチは、ソヴィエト連邦崩壊に焦点をあて、革命を支持した人、反対した人、政府のなかの人、軍人、さまざまな人の証言を載せる。本書の全体をとおして浮かび上がってくるのは、人びとの間に充満する巨大な喪失感、というよりも、剥奪感だ。

 ソ連崩壊によって、それまでの価値観は転倒し、昨日までは正しかったことが、くだらないものになった。昨日までは、愚か者だった人間が、英雄になった。また逆もしかり。年寄りや親は、子供世代に時代錯誤ののろまだと馬鹿にされるようになった。学校の教員は、子供たちに教えることができなくなった。

 こうした価値観の転倒は、日本でも1945年の敗戦時に経験はしている。だが、明治以降、西欧型の統治・社会体制を一貫して採用し続けてきた日本は、そうはいっても、欧米型の統治システム、経済体制とは一定の共通性と親和性があり、衝撃は限定的なものであったのだろう。
 むしろ、価値観の転倒がより大きかったのは、おそらく明治維新の時期の方で、その混乱の激しさは、柴五郎『ある明治人の記録』から垣間見ることができる。大政奉還後も、国内で士族反乱や廃仏毀釈といった暴力を行使する動揺が全国的に続いたことは、価値観の転倒がもたらした秩序の混乱のあらわれであったのだろう。

 経済のグローバル化が進みはじめていた1990年代のソ連で起きたことは、日本の明治維新と同じか、あるいはそれより苛烈であったのかもしれない。
 起きたのは、国内の価値観の転倒だけではなかった。経済的な側面でも多大な混乱が生じた。物資が統制され、物を自由に売買し、消費する市場主義経済そのものになんの免疫もなかった共産主義社会の人びとが、西側で生まれた自由主義経済の餌食とされ、暴力的にまで翻弄される様子は痛々しい。

 アレクシェーヴィチの一連の著作のなかでは、戦争と暴力が多く描かれるが(ソ連は軍事国家であったという意味がよく理解できる)、それと対比的に、しばしば愛と文学が至上の価値を持つものとして語られる。あまりにも純化された、愛と文学への崇拝ともよべる感覚が奇妙に思えていたのだが、市場主義経済的な価値観、つまり事物を経済や金銭に換算する思考パターンが存在しないソ連社会では、愛と文学、そしてもう一方に、権力と暴力が価値の尺度として存在していたのかもしれない。
 アレクシェーヴィチの本を読むと、いかに自分の思考が「西側」に属するものなのかを実感することができる。

 価値観の転倒のあと、市場主義経済に蹂躙され、価値の尺度の一切を喪失したロシア社会で起きたのはアイデンティティの喪失だ。『セカンドハンドの時代』のなかには、ソ連崩壊後のロシアに幻滅し、アメリカに渡ろうとする人びとが何人もあらわれる。ロシアに幻滅したのは、アメリカに渡ろうとする人びとだけではない。ソ連体制の崩壊を願った人も、その後訪れた社会のあまりの乱れぶりと生活のままならさに、深く絶望している。それは、ただ失われたのではない。西側が「奪った」のだ。自分たちの国が本来持っていたはずの価値——アイデンティティ——を、西側(の価値観)が奪った、と西に対する深い憎悪を口にする人も本書の中には描かれている。

 いまやプーチンが隠そうともしない〈西側〉への敵意と憎悪は、プーチン個人に帰するものではない。ソ連崩壊後の剥奪感に苦しむロシア社会が培い、あたためてきたものだ。アレクシェーヴィチが来日講演したときに、プーチンの覇権主義的な振る舞いの危険性について指摘していた。その時に、彼女が懸念していたのは、ロシア社会では若年層の一部がさらに先鋭化し、より〈強いロシア〉を求めるようになっており、プーチンさえ生ぬるいと批判されるようになっている、という点だった。

 ここ一年ほど、ドイツのDWやアメリカのPBSなどが制作したロシアについてのドキュメンタリーをYouTubeで流しているのを何本か見ることがあった。そこには、若年層が「力による支配」を求め、プーチンがそれを体現することによって求心力を拡大している様子が描かれていた。危惧されるのは、それが既にプーチンの個人崇拝にまで至り、組織的に教育し、次の世代にその価値観を再生産する態勢まで一部では作られていることだった。公的な教育場面のみならず、町場の武術サークルで価値観共同体の私兵養成とも呼びうる活動組織ができているのを見て、アレクシエーヴィチが危惧していた状況が現前していることをまざまざと感じた。
 こうしたことは、取材にあたって数多の人びとから聞き取りを行ってきた彼女にとっては、とっくに自明の、確かな実感だったのだろう。

 『セカンドハンドの時代』を初読したあとに、背筋に冷たいものが走ったことをよく覚えている。体の奥底から震えがとまらなかった。2010年あたりから、プーチンから流れてきていたただならない禍々しさの正体はこれであったのか、と。そしてそれが、本書に描かれる強い剥奪感とアイデンティティの喪失に基づいているのならば、この先に起きることは、より暴力的な、力による喪失からの回復であることは明らかだったからだ。
 アレクシェーヴィチが、ノーベル賞受賞後に来日して話した内容について、その頃の日本での少なからぬ反応は、「自由主義に憧れる旧ソ連のインテリが、西側かぶれの大げさなことを言っている」という程度のものであったように記憶している。当時の、首相官邸が牽引し、NHKをはじめとする大手報道が喧伝した、対ロシアの異常な友好ムード——夢想をとおりこし妄想とも呼びうる次元の日本側の一方的な願望に基づく——に包まれた雰囲気のなかでは、彼女の言葉を真に受ける人は多くはなかったのだろう。

 〈強いロシア〉を求める人びとの情動は、経済的な損益に基づくものではない。ソ連崩壊によって〈西側〉に奪われたアイデンティティの回復、精神的な意味を含めたレコンキスタを求めているのであり、そこに実利的な分析も交渉も意味をなさない。かつえた情動は、自らが破綻するか、あるいは、飢えが満たされるまではおさまることはない。これもまた、秩序と調和を求める人びとの社会戦争の変奏とも言いうるのかもしれない。


*以前に、ホックシールド『壁の向こうの住人たち』を読んだ時も関連して感想を書いていました。


この記事が参加している募集

読書感想文

気に入られましたら、サポートをお願いします。