見出し画像

読書感想文:喪失の時代 ホックシールド『壁の向こうの住人たち』 (岩波書店)

ホックシールド『壁の向こうの住人たち』を読みはじめている。この本は、ニューヨーク、ワシントン、サンフランシスコといった東西海岸沿いの裕福なリベラル都市住民にとっては衝撃的であったトランプの大統領当選と、彼への支持を生み出す土壌を、その支持地域への4年にわたるフィールドワークで描き出した話題作であるという。

著者は、カリフォルニア大学バークレー校の社会学教授であり、リベラルなアカデミシャンである。まるで正反対の右派労働者の多い地域へのフィールドワークは、異世界に迷い込んだ著者が手がかりを探しながら彷徨しているようでもある。

まだ第一部を読み終えた段階だが(なにせ小さめの文字の組版で350ページの大著だ。読むのに時間がかかる)、原題『Strangers in their own land』、自分自身の土地にいながら異邦人になってしまった人びと、があらわすように、これは「喪失の物語」なのだなと直観した。彼ら自身は変わっていない、この先も変わらないことを望むにもかかわらず、周囲の社会-その大部分は科学技術の進展と経済システムの変化に思われる-が変わってしまったため、あたかも根無し草の異邦人であるかのようにみずからを感じるようになってしまった、そうした人びとの物語であるように思える。

まったく内容もテーマも違うが、ソ連崩壊の前後に起きた人びとへの影響を多くのインタビューによって描き出したアレクシェーヴィッチの『セカンドハンドの時代』と響き合う著書だと思いながら読み進めている。

『セカンドハンドの時代』を読んだとき、ソ連崩壊によって価値観も社会も劇的に変化したロシア社会における喪失の大きさ、人びとの心理にもたらした衝撃の深さに震撼した。この巨大な喪失はどのように埋め合わせることができるのだろうか、と思案したが、どのようにも可能であるとは思えなかった。

それらは、ただ失われたのではなく、西側資本主義社会によって「剥奪」されたものでもある。いま、ロシアではソ連時代の回顧、大国主義が広がっているというが、それは自然の成り行きであるように思える。剥奪されたものを取り戻そうと、巨大な喪失を埋め合わせようとする人びとの情動が、かつての大国ソ連時代への回帰を切望させているのだろう。

ソ連崩壊は端的な例ではあるが、急激な社会変化は、それそのものが人びとにとっては「喪失」であり、しばしば「剥奪」であると感じさせるものなのではないか、と思っている。なぜならば、近代以降の社会システムの肥大化と科学技術の進展、あるいは経済システムの変化の大きさに比して、個々の人間の日々の営みは、そう大きく変化するものではないからだ。

人間一人が人生のうちに持ちうる価値観や技能は、その大部分は若い頃に培われ、その後の人生においてさほど大きく変わるものではない。そして、生まれ、育ち、食べ、排泄し、眠り、起き、労働し、生殖し、遊び、老い、死ぬといった生活のメカニズムは、そう簡単に変化するものではないし、人間同士の交わりも時代を超えて大きく変わるものではないだろう。日々の営み、生活のレベルにおいては、人間は保守的な生き物である、と私は考えている。

しかし、近代以降の社会の変化の早さは、保守的な日々の営みを置き去りにし続け、昨今その速度はさらに加速度的に増している。そこで少なからぬ人びとは疎外感を抱くのは当然とも言える。そのとき、未来に対するなんらかの展望や社会変化を理念的に支える価値観があれば、失われたと感じるものに対しての埋め合わせができるのかもしれないが、展望も共有すべき価値もなくなり、社会変化の速度だけ増している状況になれば、「喪失」「剥奪」が表面化する。

自分たちはなにも変わっていない、悪いこともしていない、ただ日々を精一杯まじめに過ごしてきただけだ、だというのに、生活は損なわれ、日々の営みが脅かされ続け、社会は悪くなっていく。これは、「誰か」に奪われているに違いない。社会の変化は、そもそもにおいて、喪失感をともなうものであり、それがいくつかの要因が重なり臨界点を超えると、社会全体を揺るがす喪失感、剥奪感へとつながるのかもしれない。

近代以降の社会の急激な変化は、喪失の歴史であったとも言えるのかもしれない。ただ、人びとは社会はよりよくなるのだ、より豊かになるのだ、そうした理念を共有することによってやり過ごしてきた。現代は、科学技術の進展も、社会変化のスピードも、さらに加速している。そして、これまでのよりよい社会になっていくという理念も大きく揺らいでいる。しばらく、あたらしいなにかが生まれるまで、私たちは喪失の時代を歩んでゆくことになるのかもしれない。

この記事が参加している募集

読書感想文

気に入られましたら、サポートをお願いします。