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短編「飼い犬の名前」

 夕方五時のチャイムが鳴る。少し前までは、五時になってもチャイムなんてならなかったし、深夜を過ぎたってどこもかしこも明るかったのに。口先をとがらせてつぶやくと、耳ざとい母が台所で野菜を切りながら大声で答えてくる。
「都会の大学なんかに行くからやん」
 女の子なのにとか、だから言ったやんとか、結局仕事もないで出戻りやん、とか聞くに堪えない本人への愚痴を言われる前に、散歩用のリードを手にそそくさと「ヘドウィグ」の方へ向かう。
ヘドウィグはわたしが小学五年生の頃から一緒に暮らしているゴールデンレトリバーだ。真っ白でも、何か魔法が使えるというわけでもなかったが、当時夢中で読んでいた『ハリー・ポッター』の主人公が飼っていたフクロウの名前から拝借した。家族からは不評だったが、わたしがとにかくしつこかったのと、当の本人(本犬)は、「ヘドウィグ」と呼びかけると元気にワンと返してくれたので、彼の意思を尊重して決定されたのだった。本も映画も見ていなかった多数のクラスメイトたちには何度も聞き返されたが、たまたま通りがかった教頭先生がその本の大ファンだったらしく大いに盛り上がってくれ、それで一時、「教頭先生が読むような本を読んでいるなんてすごい」という視線をさらっていい気になっていたものの、「よそで自慢なんかするもんじゃない」という父の一言ですべてが恥ずかしい思い出になってしまったところまでがセットだ。
「ワン!」
 ヘドウィグの鳴き声ではっと我に返る。都会の大学に進学したはいいものの、うまく就職できず田舎に戻ってきてからの唯一の癒しの目線の先で、広大な田んぼが夕陽を受けて輝いている。少し年老いたわたしのかわいい、かわいい癒しのかたまりが、こちらを振り返り、振り返りしながら私の前をゆっくりした足取りで、しかし一歩一歩大地を踏みしめながら進んでいく。
「少しだけ走ろうか、ヘドウィグ」
「ワン!」
 あの太陽に向かって走れ的な……と一人でつぶやき、地面を強く蹴った

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