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幸せが漏れてゆくバケツ


褒められと認められと自尊感情(≒自己肯定感)についてのお話を前回書いたあと、Twitterで「穴の開いたバケツ」というワードを見かけました。人に与えられる「褒め」が心の中に蓄積されてゆかない、響かない様子のことです。

確かに、「●●さんがいつも褒めてくれるけど嬉しくない」とか、「この投稿になんでこんなにいいねがつくんだろう、前のやつのほうが頑張ったのに」とか、結構聞きます。

ほんの少しだけ前回の記事でも触れましたが、「褒められても嬉しくない」という感情について。私たちが褒められて「嬉しい」「嬉しくない」が起こるのはなぜなのでしょうか?

褒められると幸福なはずなのに。そんな思いがあると思いますし、私もそれはそう、と思いますが、人間の心は複雑です。でも、できれば底抜けのバケツより、ちょっとでも「嬉しい」が溜まるほうがいいですよね。

と、一通り考えてみたものの、最初に書いちゃうと、実は修理方法、あんまりはっきり見つけられていません。すみません。

でも、穴を小さくできるかもしれないな、ということについては少しだけ検討したので、よければ読んでみてください。

まずは「褒められてうれしくないって、どういうとき?」について、研究論文(仁平,2016)から考えてみます。


褒められてうれしくないときにある主な背景要因

【非信憑性】
ありきたりでステレオタイプ、言葉では褒めているが態度はそうでない、適当な褒め。
ex)「適当に『かわいい』と言われる」「自分のことをよく知らないのに『あなたならできる』と言われる」
【背後の意図】
お世辞や、自分を操作しようとする意図、褒めのふりでおとしめようとしているのが背後に見えるとき。
ex)「化粧しないほうがかわいいよと言われる」「何かを頼まれたとき『●●するのすごくうまいね』とおだてられた感じがした」
【相手との関係】
嫌いな相手からの褒め。
【非随伴性】
誰でも褒める人から褒められた、努力などが伴わない容易な達成を褒められた、偶然成功したことなのに褒められたな、結果や努力とほめの随伴性(関連性)が低い場合の褒め。
ex)「誰でもできる課題なのに『よくできたね』と過剰に言われた」
【事実との乖離】
ex)「絵がずっとうまい人から『絵がうまいね』と言われた」
【不適切さ】
ex)「いきなり『若く見えるね』と言われた」
【うれしくない部分のほめ】
ex)「自分では気にしているのに、『肌が白くていいね』と言われた」
【限定性】
ex)「料理『だけは』うまいねと言われた」
【安易な比較】
ex)「女優の××に似ていてかわいいねと言われた」

(仁平.2016)

うわ~~~~め、めんどくせ~~~~~~!!!

……という声が聞こえてきそうだなと思いました。褒める側からしたら「知らんがな」「そんなつもりじゃないんだけど」と言いたいこともたくさんあるような気がしますし、逆に受け取る側になってみると「そうかも」と思うこと、結構あるのでは?

冒頭で言った「いつでも褒めてくれる●●さん」「いいねが嬉しくない」あたりは『非随伴性』(何しても褒めてくれる、とか、前のやつのほうが頑張ったのに)でしょう。

これはあくまで暫定的な整理ということで、この要因がいくつも絡み合って、私たちは複雑な気持ちを抱くことが考えられます。

相手に悪気がないからと言って、自分が「嬉しくないな」という気持ちを抱くことが悪いのだ、全部受け入れねば、と思う必要はもちろんありません。自己肯定感を強くしていくためには「褒め」より「認め」のほうが重要ですが、これらの「いやだなあ」と思う要因は「認め」にも発生しているような感じがします。おまえに認められても嬉しくねえ! みたいな感じ。褒めと認めは一概にはっきりと区別できるものでもありません。

ですが、「本当は嬉しい、ありがとう、と言いたいのに、こころから言えない」「認めてもらっているのに、それが受け入れられない」という苦しさがある場合。

いくら褒められても、その感覚が自分の中に溜まっていかない。まるで穴のあいたバケツのように、どんどん漏れ出していく。

そうなってくると自分で自分を褒めることはかなり困難です。


褒めるって難しい


上記の「褒められて嬉しくないときリスト」を見て、そう思いませんでしたか?

自分もうっかりやっているかもしれないこと、自分がいくら本気で思っていても伝わらないこと、あるかもって思いませんでしたか?

では、褒めが嬉しい場合ってどういうときなのでしょう。ここも同じように引用します(仁平,2016)

褒めが嬉しいときの主な背景要因

【関心】と【努力との随伴性】
自分もずっと努力していた点に持続的な関心を持って見てもらっていた場合のほめ、自分の評価とほめが一致していたという随伴性、自分が大事にしていたものやセンス・好みへのほめ。
【信憑性】
「わざわざ」手紙を書いてくれるなど労力を使ったほめ、声のトーンや表情などの非言語情報がほめの内容と一致していること、本人ではなく第三者からその人物がほめていたと聞かされる「間接的なほめ」、利害関係のない見ず知らずの人からのほめ、複数の別な人から同じ内容のほめをされる、なかなか人をほめないような人物からのほめなど。
【治療的効果】
「精神的にまいっているとき」「つらいとき」など自分がマイナスの状況にあるときのほめ、トラウマになっている部分を癒されたと感じられるほめなど。
【自己の能力の確認】
「あなたには安心して任せられる」など信頼して委任されること、「君はやればなかなか出来るじゃないか」など潜在的な能力をほめられることは、自己の能力を確認させてくれる「うれしい」経験。
【新しい自己の発見・新しいアイデンティティの獲得】
「いままで考えたこともなかった自分をまったく別な面から見てほめられる」など、新しい自己を発見させ、ときには「新しいアイデンティティ」を獲得させてくるようなほめ。

どうでしょうか。即売会会場でわざわざ丁寧に書かれたかわいい手紙をもらったときの嬉しさを私は思い出しました。

もちろんこれらに「褒めがいやだなあと思う要因」がくっつけば、たちまち受け入れられないものになってしまうのでしょう。褒めって難しいです。受け入れてもらえるかどうかわからない、怖い。

褒める側になったときに、こんなに条件そろってないとほめても無駄なの!? と、そう思ってしまいそうです。


褒められて喜べるようになりたい


できればその方がお得だなあ、と思うと思います。私もそうです。同時に、褒めている相手にとってもそのほうが絶対に幸せです。

嬉しくなかったなあ、と思ったとき、自分は相手のことをどう思っているだろうか。その言葉に対して何で嬉しいと思えなかったのか。上記の引用表に当てはめて考えてみるといいのかもしれません。

いやいやそれ褒めてないじゃん、という褒めはともかくとして『非信憑性』『非随伴性』のあたりは自分の努力でふさげそうな穴もあるかもな、と思います。自分のやったことを自分できちんと評価できていなかったり、がんばったな、って思えないことを褒められても…というのは、自分で自分を見つめ直すことで、意外とできてることなのかも、と思えたら、褒められても素直に喜べるのかもしれない。

ただやっぱり、書けば書くほど「褒め」で自己強化をするのは難しいことなんだなあと思いますし、穴のあいたバケツをふさぐ方法って、結局水が溜まるように褒めてもらえる経験を持つことになっていくのかな、と思ってしまいます。

自分のやっていることを自分できちんと把握していくことや、自分が頑張っているポイント、自分が大切にしたいことを理解しておくことは、誰かからの「いいね!」を受け取るために必要な器の底の部分なのだなあと感じました。

例えば「前のやつのほうが頑張ったのに適当に描いたもののほうがいいねがついた」だと、「適当に描いたけど、こういうところが評価されているのかもしれない」と自覚的になってみること。「●●さんがいつも褒める」の場合は、「いつも褒めてくれているけど、今日は自分も頑張ったところをすごく具体的に褒めてくれた。本当に好きでいてくれているんだな」あるいは「いつも褒めてくれるってことは、作品を評価してくれているというよりも、自分のことを好きでいてくれているという感じなのかな」とリフレームしてとらえる。(それが事実かどうかは分かりませんが)

大切なのは「嬉しくない」を感じた時に、「どうして嬉しくないのだろう?」「私はその言葉に何を感じていたんだろう?」ということを考えること。
それから、それが自分の考え方や物事のとらえ方によるものなのかどうか、そこを修正していきたいかどうかを考えてみること。

幸せが漏れて行く、と書きましたが、本当に褒められることすべてが幸せなのか? 本当に大切なのは、自分が自分を認めてやれるようになるための大切なものを見落とさないようにすることなのかも。何もかもを溜めていくと、今度はその重みで底が抜けそうです。

大切なものをためておこう、と思うこと。そうすると底抜けのバケツから、底はあるけど穴がある、ちょうどよいバケツを持っていけるのかもしれません。


【引用・参考文献】
仁平義明(2016)ほめられてなぜうれしいか,ほめられたのになぜうれしくないか:「ほめ研究ゼミ」 の教育.白鴎大学教育学部論集第10巻2号  pp.377-401.

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