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25. 書きたいことと書いてしまうことの距離はどれくらいですか

朝の散策に絶好の天気がつづいている。ご近所をぐるっと15分ほど歩くだけでも、昨日には気づかなかった花やどんぐりの小山をみつけたり、燃えてるみたいな広葉樹の葉と出会えたりして、ウキウキする。近所の庭では、カリンの木をよくみかける。ぽってりと重たげで、あんなに豊かな実でありながら、カリンは、りんごのように甘くない。涙が飛びでそうなほど酸っぱいのだ。

帰宅すると、散歩で思いついた発見や小さなアイデアなどを、紙の切れ端に書き留める。書いている時には、すごく楽しい。妙にうんうんと納得して頷いたりし、そのままノートを閉じたり、切れ端を机の上にポンとおいていたり、仕舞ったり。

虫干しして、仕上げていくことも時々はあるけれど。そのまま時間をくぐっていくことが多い。置きすぎると色褪せるのに。

散歩の時には、あるいは帰宅後にメモしている時には、へぇと面白いがっているのに。それをかたちにすることを、躊躇している自分に、先頃、気がついた。

なぜなんだろう?
ノートに万年筆で一気に書くうち、脳内に浮かんだあれこれを、紙の上で表してしまったらそれで、ある程度、満足してしまうのかもしれない。それとも、書いたことでわかって(納得)しまったのだろうか。

書きたい気持ちを尊重にして書くには、技術を要すること。つくりあげるには忍耐もいることをどこかでわかっていて、勇気がないのだろうか。(面倒くさいのか)

あとで……改めて付き合いましょう。
ちゃんと時間のとれるようになれば……。
そんな日は、めったにこない。来たとしても、次のことを考えてしまっているわたしになっているから、もうあの時では、ないのだ。


これはあくまでわたしの場合であるけれど。なぜだろう? と自分が疑問に思っていること、モヤモヤしていること、なにか掴めそうでつかみきれない、生まれそうでうまれていない。霧の森にうかんでいるものを、答えを見出すために書いていることが多い。書くことは、考えることであるから。書きながら考えを深めることが大切だとわかっているから。

ただ、それでも書き手が、なにかわからないものを確かめたくて書くのだから。いったん結論をつけたとしても、あやふやで頼りないということがある。

それに! わたしはどうやら一番手をスルーして、二番手、三番手のものをつかんでいく傾向にあるらしい。食事のメニューひとつとっても、二番目に好きなものを、差す場合が多い。

最初にこれだ、と思ったものではなく、次に自分が気がついたものに手を伸ばしてしまっている。よく、恋愛は二番目に好きな人の腕をつかめ、などというけれど。これって、損をしているのだろうか。トクをしているのだろうかしら。

もし、一番目のものを選択して、あまりうまくいかなかったら、自分にいいわけがたたない。ひどく、気持ちが塞ぐに違いないとパチパチと胸の下でそろばんをはじいて、行動しているのだとしたらそれはよいとはいえない。うん。よくない。

ある広告会社のディレクターさんに言われたことがある。あなたは、自信さえもてばいいのに。というようなことだ。


では、一番目に自分が決めたこと、気づいたことを。自分の手で救ってやるよう、訓練してみようじゃないか! いまそう思った。
人生思い切りが肝心だ。なぜか気になることを自然のまま選び、直感で飛んでみると「思ってもみないよかったこと」にも出逢えるのだ。

今年もあと二ヶ月……、2021年はあと60日たらずだ。

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