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30. クリスマスのごちそうから父のビーフステーキを想う


24日のクリスマスには、ローストビーフをメーンに、網で焼いた貝柱と海老をいれ、アボガドとサーモンを混ぜてサラダにした。鳴門金時がたくさん台所に転がっていたので、サツマイモのポタージュに。普段ならオードブルをもう一品こしらえるところを、Nもいない、夫婦ふたりなので今年はなし。替わりにふるさと納税で届いた奥出雲の白ワインをあけて、白カビのチーズを開封し、フランスパン&チーズ。ケーキは買物ついでに芦屋のダニエルで購入した。うっすら霜の降りた甲山を背に、芦屋川を流れる水面がみられて、それだけで、心が洗われ、今年のクリスマスの景色を見られたと満足する。芦屋カトリック教会も、車窓から見渡すことができた

 

25日は、寒い一日だった。長いこと修理に出していたHERMESの時計を引き取り、大丸梅田店へ。デパ地下でバルサミコ酢とすね肉を購入。晩はビーフシチューをつくった。

 

さすがに洋食ばかり飽きたので、一昨日はブリ大根をコトコトと。青菜の白和え、ロッコリーとトマトのサラダ、バルサミコドレッシングを添えて、味噌汁。甘辛キムチ。純米吟醸を2杯飲む。

 

なんの家事も、得意でないが唯一料理だけは、そう面倒とは思わない。作り方のわからないものは、スマートフォンを開いてレシピを確認し、あとは塩梅で(ベターホームの料理本「母さんの味」「家庭料理」が実用的)。おいしいものを、口にいれることが、一日の幸せになる。

 

物を書く仕事を生業にしていると、家系に文筆家がいないのか、探したくなるが。そうはいかない。還暦の年で他界した、わたしの父は、料理人だったのだ。

 

兵庫の城崎温泉、湯村温泉や神戸三宮の料亭で修行をし、晩年には、腕をかわれて支配人として、香住、城崎で、旅館を営んだ。この頃は、父が料理人でいてくれて、ありがたかったと胸に手をあてる。思いを馳せれば、父ほどに。喰うことに貪欲で、あったかい男を、今のところは知らないから。

 

家族はもとより、親戚からわたしの友人や、自分の客人まで。躊躇せず、誰でもサッと手をさしのべられる、そんないざという時に、頼りになる男でいたかったようだ。普段から、人のことをよく見て、人のことを、よく考えていられる。そういう男だった。

 

例えば、夫婦水いらずの旅には、必ずといって義母を誘う。

「お父さんが誘ってくれる旅行では、たったの一度たりとも自分の財布を開けさせたことはない。土産までもたせてくれた」そう言われるのが、嬉しかったよう。見栄っ張りなのだ。やたらと、情に厚く、存在感のある人だった。

 

高校・大学と、実家を離れて暮らしていたが、熱を出すと、どんなに旅館が忙しくとも、時間をつくって迎えにきてくれた。「お父さんがいるから、もう安心や」そう言って、ふっくらとした大きな掌を、わたしのおでこに乗せた。

 

そんな父が、わたしのために作ってくれた料理がある。当時、わたしは小学5年。母が子宮や卵巣を全摘するため、1週間ほど入院した時だ。

父は、旅館のまかないを、食べさせることをしなかった。

ある材料で何か作ってくれるか。わたしが、なにか作るかどちらかだったと記憶している。

 

あの日。自宅(旅館ではない)の台所で、ビーフステーキを焼いてくれたのを、その味を、まざまざと思い出す。確か。かなり厚みのある神戸牛を、肉を叩く棒でパンパンと叩いたあと、鉄のフライパンに火をいれて、ゆっくり時間をかけて肉を焼いていた後ろ姿。白いコック用のエプロンをちゃんとしていた。

 

いちばん先にニンニクのスライスを焼いたと思う。ガーリックライスをあとで食べたから。バターもたっぷり使っていたはずだ、ウイスキーでフランベし、赤青い煙が、もわっと上がって、換気扇の音がカタカタと激しく鳴っていたのを覚えている。

 

 父が、ニコニコして運んできたのは、白いオーバルプレートにのった厚いビーフステーキ。ほんのり赤色を残した、こんがりとおいしそうな湯気のたつ肉だった。にんじんとポテトの付け合わせや、カレー風味の酢キャベツ、スープ(たぶんオニオン)もあった。

 

赤身の、噛みごたえのあるたくましい肉だった。バターの香りにプンと洋酒の風味がし、これが欧風料理というものか、と。男の焼く骨太な肉料理を食べたという気がした。小学生には、少し量が多かったが。残さず食べた。美味しかったというより、嬉しかったのが先にきて……、いま、とても貴重な時間を過ごしているのだと、幼いながらにすごくわかっていたのだ。

 

父は、男のくせにすごくチャーミングに笑う。肩を大袈裟にあげて喜ぶ。
そしてうまいものを、味わう時の父の口元が、わたしは好きだった。広角を存分にあげて。目は輝いていた。

「料理は舌が肝心だ。そして、一発で味をつけること(調味料をいれる)。あれこれ、迷ってダメだ」と伝えてくれた。

 「お前は、筋はいい」とよく言ったし、母が、いとこの誰やらが凄いとか、友達の誰やらが賢いとかいうと、ソッとわたしを呼んで「お前は、○○ちゃんや、○○ちゃんとは比べものにならない。お前は、有形無形の力があるからな。よく覚えておきなさい」と励ましてくれた。

 

 父は、日本料理のなかに、蟹や伊勢エビのグラタンや、コーンスープなどを、洋風なものをアクセントに使うアイデアマンでもあった。おそらく、若い頃に神戸で食べた、ハイカラ洋食の味が父には刺激であったのだろう。うまいものに目がなく。旅好きで、金に糸目をつけず、食べ歩くのが好きだったから。

 

そうだ。香住で(兵庫県香美町)で旅館を営んでいたときに、漁師らが漁船のうえで、松葉蟹を炭火で炙って食べては、甲羅酒を飲んでいたのを話しに訊き、「焼きガニ」というのを初めて考案した(1970年代)という。当時はよく取材の人が来て、それを記事にしてもらっていた。それらのスクラップをわたしに見せ、「プロの仕事とはこういうものだ。1時間くらいの取材でここまで深く書けるんだ。お前はまだまだ。お前くらいの文章が書ける人は五万といる」と、広告会社に就職した当時、よくそう言ってわたしにカツをいれた。

 

 まあ、親戚筋に文才のある人がいたかどうかは、分からないが。
なにはともあれ日日に欠かせない、食へのこだわりと、思いやりのようなものを父から受け継いでいるとしたら御の字。これ以上の、誇らしさはない。

 

 

 

 

 

 

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