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39.  おしゃべりなお嬢さんたちのおはなし

 花といえば切り花一辺倒だったわたしが、アネモネのつぼみがついた苗を買った。帰宅してすぐに食事の準備をするために、台所のカウンターに置く。澄んだ紫。お嬢さんを連れてきたように、いつもの空間が、精気に満ちる。ほっておくと、2輪の花がくっつこうとするので、微笑んでしまう。茎が細くひょろっとした花が、緑の濃い頑丈な首をもつ花の側にいっておしゃべりをしているのだ。

「こしょこしょこしょ」「ふ、ふ、ふふ」

 翌日の朝、さっそく植え替えをした。ハーブの土に、苦土石灰と牛糞の肥料を混ぜて、水はけをよくする砂を蒔いて、最後にジョロで水やりをした。風が北から吹いてきたら、室内にいれる。そのたびに「かわいですね」「お元気?」と声をかける。太陽の位置にあわせて、鉢を持ち上げて、場所を変えてやる。朝陽を浴びて花は開き、曇り空や夕には閉じる。

 そして数日後の朝のこと。

ふたつの花がパッと左右に離れていたのだ。

 いつも、まつわりついていた花が、真反対をむいていた。なにがあったのだろう? 人間が知らないだけで、花には花の人生があるのだ、と深い感慨に浸る。

 育てることは、育てられることに同義語である。声を掛け、手をかけることで、愛をもらっている。モノの本によると、本当に体の内側から愛情ホルモンのオキシトシンが出てくるらしいのだ。

 ベランダの花やハーブを育てながら、ふと、郷里の母のことを思った。実家の庭には花が絶えたことがない。玄関から仏壇、居間にはいつも切り花を飾っていた。コロナ禍の一人暮らしとあって、さぞ不自由だろうと思いながら、月に一・二度しか帰省できないことに胸が痛いが、手伝えることがあれば、声をかけてきたつもりだ。母のしてほしいことを手伝ううちに、自身が癒やされていく。幼少の頃は、全てにおいて完璧主義な母が苦々しかった。おはよう、から、おやすみなさいまで、百回くらい叱られた。けれど実家を出て、十年、二十年と時間が経つごとに母の中にもうひとりの女を、あるいは自分をみるようになる。ルーツはここにある、と。

 他人を思うことは、喜びの循環だ。そう考えると見返りを求めることもないのだ。混沌とした時代にあるいま、どう生きるかに心を砕こう。
 翌朝。花に水やりをするとアネモネのつぼみが2輪、葉と葉の間に生まれていた。花は遺伝子を伝えながら花芽を増やし、今日も、ゆらゆらゆれている。

某企業、会員向け情報誌での連載エッセイ 2022spring (一部加筆修正)
筆名で掲載。 

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