性被害って、どこから?
起業家という道を経て、今は二作目の出版を目指している橋本なずなです。
「 性被害 定義 」
まさか私が、そんな言葉をGoogleに打ち込むとは思わなかった。
——— それは少し前のこと。
とあるお店で一人で飲んでいて、隣に居合わせた男性と挨拶を交わしたのが事の始まりだった。
彼は32歳で、人材派遣の会社を経営していると言った。
まだ始めたばかりで社員は彼一人。同じ “一人社長” として意気投合した。
『 いやー、こんな綺麗な人と一緒に飲めて、話も合うし楽しいなぁ 』
私は、話が合う、とは思わなかった。
話はそりゃあ合わすでしょう。出会って早々にディベートするわけにもいかないのだから。
私も楽しんでいたことに間違いはないけれど、彼とはただ立場が似ていて、同じ店に居合わせただけ。それ以上でも以下でもなかった。
『 この近くによく行くバーがあって、良かったら飲み直しませんか? 』
時間もまだ早かったことで特に断る理由もなく、私たちは二軒目に移ることにした。
事がややこしくなったのはそれからだ。
彼には、“立場が似ていて同じ店に居合わせただけ” でない気持ちがあることは察していた。
けれども私は一軒目から伝えていた、彼氏がいると。
それでも彼は諦めなかった。
二軒目、ハイチェアのカウンター席で私の右隣に彼が座った。
他愛のない会話をしていると、彼が私の太ももに触れた。
「 ん…? 」
『 んー? 』
『 右手 』
「 ん、なに。どういうこと? 」
『 右手、出して? 』
彼が何を意図しているのか分かっていた。
私はあえて机の下ではなく、カウンターの上に手を出した。
「 はい 」
『 はいっ 』
彼は私の右手を握って、自分の膝の上に乗せた。
「 ちょっと…!」
私はすぐに手を振りほどき、ハイボールの入ったグラスを握った。
口説くにしたって手を握るなんて古典的だ。高校生か、と内心でツッコミを入れながら。
それから彼は自らバーのなかに入って、“好きな女の子にしか振舞わない” というオリジナルカクテルを作ってくれた。
コアントローとトニック、ピーチリキュールの入った淡い桃色のカクテルは、見た目の可愛らしさとは裏腹に、強いアルコールが喉の奥を熱くした。
それから何杯か飲んだ後、私がお手洗いに立った間に彼はお会計を済ませていた。
店を出て、私は南に、彼は北に向かおうとしていた。
『 帰っちゃうの? 』
「 うん、帰るよ。彼が心配してるから 」
『 また会える? 』
「 うーん、まぁ・・・機会が合えば? 」
『 悪い女の子だなぁ 』
「 さっ、かえr 」
『 待ってよ 』
人気のない路地裏、彼は私の左手首をガシッと掴んだ。
「 はっ… 」
私は途端に動けなくなった。身体が石のように固くなった。
私の足首に強く、深くかかる圧 ——— 今もなお呪いのように刻み込まれている、あの記憶がフラッシュバックしてしまったのだ。
長く、とても長く感じた。
それから彼は私の頭を乱暴に掴んで、何度も強引に唇を押し付けた。
私はとにかく彼を逆上させないように、最後まで笑顔を作っていた。
彼の目は、瞳孔が大きく開いていた。
嫌だと言えば、何をされるか分からなかった。
殴られるかもしれない、押し倒されるかもしれない、この路地のどこかでめちゃくちゃにされるかもしれない。
私は彼を必死になだめた。
そして「 また連絡するから 」と言って、その場から逃げ出した。
必死に走った。とにかく走った。
後ろは振り向けなかった。怖かった。
顔がぐしゃぐしゃになるくらい泣いていた。
足は震えて、立っているのもやっとだった。
家に着いて、私はGoogleに打ち込んだ。
「 性被害 定義 」
信じたくなかったのだと思う、自分の身に起きたことを。
けれども誰かに言って欲しかったのだとも思う、あれは紛れもなく暴力だと。
私はその場に崩れ落ちた。