大学院入試を振り返る(国立文系・言語学)

1 はじめに

私ははある国立大学の言語学を専攻する学部4年生で、言語学で外部の大学の院試を受け、無事合格できた。

このnoteでは、自分がなぜ院試に落ちると思っていたのか、また、結果的には合格しており、肩の荷が降りたにもかかわらずなぜ危機感を抱いているのかについて述べ、この自信のなさとは裏腹になぜ院試に合格することができたのかについて述べるためのものだ。その際に、「知識の統合」というキーワードについても本noteで述べたい。

2.1 なぜ院試に落ちると思っていたのか:統合された知識の少なさ


院試に落ちると思っていたのは、自分の頭の中に統合された知識が少ないからということだ。これは院試の筆記試験の5日前に特に感じたことだ。1ヶ月前はとにかく未習の音声学や第二言語習得の教科書を読み、内容を理解することに必死で、全て読み終えたのが院試の5日前くらいだった。読み終えて理解したは良いものの、それらの内容を自ら真っ新な状態で引っ張り出すことができないことに気づいた。しかし、とにかく院試までの3日か5日、いや第2言語習得にかんしては、前日に、知識を引っ張り出す練習を繰り返した。ここまででお分かりの通り知識を引っ張り出す、すなわち単に理解しただけではなく、教科書の内容を自ら空で説明できるような状態にする準備が圧倒的に足りなかった。よくよく考えてみれば、理解できた知識を引っ張り出す練習をし、それらを統合された知識にする訓練は、大学受験とくに世界史や日本史の勉強で何度もやっていたではないか。大学受験から時間が経ち、コロナ禍によって大学のテストも減ってきたことから自分はテスト勉強の仕方を忘れていた。さらに例を挙げると読書会についてもこのことが当てはまる。読書会は、決められた範囲を要約し、読書会仲間に発表する。このプロセスは、本の内容をある程度理解した上でそれらを自分の言葉に換言して説明する力が求められる。しかし、読書会の発表は、レジュメを見ながらの発表だ。それらの内容をレジュメを見ずに口頭で説明しない。テストでは後者の力が求められる。そういうわけで、読書会後にレジュメを見ずに自分が発表した内容を説明できるかを試してみることが必要であるように思う。これをすることで統合された知識が頭の中に蓄積されていくだろう。このような練習を私はほとんどしていなかった。

2.2 なぜ院試に落ちると思っていたのか:志望大学院から頂いた院試までに読んでおくべき参考文献リストを全然読んでいないこと、あるいは、読んだ内容がその場の理解でとどまっていたこと

前者に関しては、院試の説明会で頂いた参考文献リストに半分も目を通せていなかったことを理由に院試合格への自信が無くなった。これは、1ヶ月ですべてのリストに目を通せるだろうという自分の見通しの甘さが招いた結果だった。後者に関しては、2.1と関連する。教科書を読んでいる最中は、内容を理解しているものの、それを教科書を見ずに一から説明できる事項は圧倒的に少なかった。その結果、参考文献リストに載っていた用語の説明の問題を何問も不完全なまま書いてしまった。

2.3 統合された知識を増やすには

2.1と2.2をまとめると、自分にはアウトプットできる知識が少なかったゆえに院試の問題の解答に自信が持てなかった。では、何をしていれば統合された知識を増やせたのか。これは、単に自分と向き合う時間を増やすことに集約されるように思われる。つまり、単純に勉強時間を増やせ、ということだ。しかも、1人の時間ということが肝心であるように思われる。私は、院試前にいくつも読書会をいれすぎ、レジュメを作ることに追われてしまい、レジュメを見ながら発表できたことは良いものの、空で説明する状態をつくることができなかった。読書会をやるならば、適度な数の読書会に参加し、読書会後もその内容について深く内省する時間を設ける必要があると思う。

3.1 院試に合格したものの大きな危機感がある

私は、最終的に院試に合格できた。このこと自体喜ぶべきことであるが、私には大きな危機感がある。それは2.1と2.2で述べたように統合された知識すなわち空で説明できる知識が少ないという事実は合格しても変わらないということだ。おそらく教科書も何冊も完璧にしたという状態で院試に臨めば、自分の合格に納得できるだろう。

3.2 統合された知識はなぜ重要なのか

先ほどから「統合された知識」という概念を幾度と使っているが、このような知識は果たして重要性を持つのだろうか。それは、思考、読書、創造性に大いに役立つように思われる。

まずは、アウトプットできる知識は、思考に役立つということだが、思考とは、概念操作に他ならないからだ。ある概念を頭の中に入れ、それをいつでも引っ張り出せる状態にしなければ、そもそも「考える」という営みはできないはずである。それゆえ、ある概念を単に理解するだけではなく、その理解した事項をいつでも空で説明できる状態にする必要があるように思われる。

続いて、読書だが、これも思考と関係している。読書とは、著者の思考(いくつかの根拠に基づいたargument)を辿る営みである。その際に、別の本で出てきた概念が出現するかもしれない。その概念を、別の本で理解し、自分の知識として統合しておけば、他の本で素早く著者の思考が辿れるはずである。そして、概念とは本来、私的なものではなく公共性を有したものであるため、断りがない限りは、統合された知識が役立つのである。

最後に、創造性についてだが、これは、オリジナリティのことだ。研究は、他の人の論証を理解し、知識として統合するだけでは成り立たない。独自の主張をし、その主張がある分野一般にどのような貢献をするのかということが研究には重要である。まだ学部4年であるにもかかわらず、研究について偉そうに語るなという批判はさておき、私がレポートや卒論を書くことを通して、先行研究なしには自分の主張を展開することは難しいと学んだ。そのため、研究に対する独自性は、先行研究(他人のargument)なしには出せないということだ(もちろん例外はある e.g. ウィトゲンシュタイン)。そして、先に読書について統合された知識が役立つと述べたが、その読書とは、他者の主張を理解する営みであり、それは先行研究を理解することと同じである。それゆえ、オリジナリティにおいても統合された知識は役立つように思われる。

4 なぜ合格したと思うのか

自分の合格に納得はしていないもののなぜ合格できたのかについて理由を考えてみた。ひとつは院試の問題の運が良かったということ。先に統合された知識が少ないと述べたが、その少ない知識の中から、第二言語習得の用語問題がほとんど出題されていた。しかも、その少ない知識とは、院試前日に身につけたものだった。

もうひとつは、院試は言語学の試験だけでは決まらないということ。英語、口述試験、研究計画書、学部時代の成績が関わってくる。とくに英語は英検1級の勉強をはじめてからコツコツ継続してやってきたことだった。そのため、和訳問題では知らない単語はゼロで、構文も全て把握でき、意味も理解できた(と思う)。

最後に、試験が始まるギリギリまで勉強したことだ。先に参考文献リストを全て完璧に空で説明できる状態にし、それによって院試合格を納得したものにすると述べたが、これは現実的に無理な話だ(少なくとも1ヶ月前から始める場合は)。しかし、すべては無理でも試験が始まるまではできる限りの知識を統合することは可能だ。そしてこの本気で統合するという営みは、院試の前日と当日に1番集中して行うことができる。この前日と当日の作業でアウトプット可能な知識が第二言語習得の問題でいくつも出題された。

5 今後について

以上の反省点を踏まえて、今後は自分の専門分野を中心に統合された知識を増やしていく練習をしようと思う(このことは統合された知識が重要であるということを前提とするが、この重要性については3.2を参照)。あと、反省点にかかわらずまだまだ勉強不足なことがたくさんある(e.g. 指導教員や研究仲間との人間関係、研究の方法論)ので、その辺りも克服できるように日々精進していきたい。

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