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オレンジのビー玉

前回までのお話↓


日本での生活が始まった。
「ありがとう」とか「おいしい」ぐらいしか日本語が分からない中で毎日毎日学校へ行く。みんなが色々話しかけてくれるけど何も分からなくてごめんなさいって感じ。

授業も全然分からないので学力も下がっていく。たまに別室で英語が出来る先生が一対一で教えてくれてた。勿論全部の科目ではないので、毎日付いていくのがやっと。
それでも落ち込んだりした記憶はなぜかそんなにない。
どうしても分からない時はノートに落書きしたりして気を紛らわせたり、漢字の形が面白くて色々書いてみたり。
単語をちょっとずつテレビとかアニメで覚えたり。

別室で英語で教えてくれていた先生とのやりとりで唯一覚えているのは、国語かなんかのやつで、
「おばあちゃんの口ぐせ」ってどういう意味だと思う?って聞かれて、
「おばあちゃんの口がクサイってこと?」って答えたらめっちゃ笑ってくれたこと。

体育の授業も面白かった。
体育といえばドッチボール。
なぜか自分にボールが渡るとみんなが、
「逃げろー!」
とか言って一斉に逃げる。

外国人ってだけで相当強いボールを投げられるって思われてた。
勿論そんなことはなく、ごく標準的な強さだった。

体育で唯一イヤだったのが水泳の時間。
なんであんなにピチピチの水着をはかせられるのか意味が分からなかった。
普通に恥ずかしい。
でもみんなは普通にはしゃいでたから、自意識過剰だったんだなぁと思う。

みんなは恥ずかしくなかったですか?

あと家でお留守番の時はちゃんと電話に出なさいと言われて、
ろくに日本語も話せないからイヤって言ったけど、

「もしもし、だれ」

ってだけ言えばいいからって言われて、指示通りに電話を取っては

「モシモシ、ダレ〜」

だけで押し通してた。もちろんそれじゃ話は進まないので相手から電話を切られたり自分から切ったり…

子供の成長は早いもので、半年ぐらいすると何となく言葉が話せるようになったり字が書けたり、授業も理解出来るようになってきた。

話せるようになってきた時に仲良くなった女の子がいる。
一緒に帰ったり、家に行ったりして遊んだ。
プレゼント交換したり。
自分が水疱瘡になって学校を休んでた時も、家にまで来て宿題とか学校で配られるプリントまで持ってきてくれてた。

その子にある日近所の公園に呼び出されて、オレンジ色のビー玉を渡された。

「私東京に引っ越すことになったの」
「だから来月からはもういない」
って言われた。

すごく悲しかった。

当時はスマホや携帯電話がなくて、文通をすることになった。 
交換日記なんかも流行ってたね。

実際に遊んでたのは数ヶ月だったけど、文通は4年くらい続いた。
中学校の途中くらいまで。
文通をしている途中で好きになってることに気付いたがそれを伝えることは無かった。
初恋だった。

今もお元気でしょうか。

日本に来てからの小学校生活で何か残せたものない。
夏休みの宿題で絵を描くっていうので、
懐かしくてフィリピンの海と太陽を描いた。
それが学校以外のどこかの会場で、他校の作品たちと並べられてちょっとした賞を頂いたくらいで。

あとは国語の授業で書かされる感想文とかも好きだった。
原稿用紙一枚くらいの感想文でオッケーだったのに、そんなんじゃ全然足りなくて先生に原稿用紙のおかわりをもらって、大体三枚くらいは書いてた。

国語の授業でやって印象に残ってたのは、

『赤い実はじけた』

『大造じいさんとガン』

かな。

ちなみに、当時流行ってたのは
SPEED    PUFFY   GLAY    華原朋美とか。
アニメだと るろうに剣心 名探偵コナン
とか。

女の子のファッションなんかはルーズソックスもこの時ぐらいから流行りだしてた。

小学校の帰りに弟を保育園に迎えに行く担当もその内するようになってた。
小学校から保育園までは大人が歩いても結構な距離はあったけど、ほぼ毎日それをしてた。

保育士さんが、

「お兄ちゃんが迎えにきたよー」

っていうと、弟はいつも嬉しそうに帰り支度をしていた。よっぽど早く帰りたかったんだろうか。

なんてことない普通の生活。

ボーッと生きてたら卒業式を終えて、中学生になった。




そして、母国語はすっかり話せなくなった。


続きはまた。


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