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図書館がこころを拒んだ日。

家にも、学校にもいられないとき。行き場がないとき。
よく図書館へ逃げていた。だいすきな本に縋りついてずうっと居座っていても、誰にも注意されないすばらしい場所だった。

およそ2年前に緊急事態宣言なるものが発令されたとき。図書館や夜の公園でしか息をすることができない若者たちの受け皿はどこにあるのだろうと考え、危惧した。若者の居場所がどんどん奪われて、しかしその現実に呆然とするしかない。年長者として恥ずかしく、でもどうしたらいいのかわからなくて俯くしかなかった。

家が、学校が。当然のように居心地の良い場所だと無邪気に感じられる魂がどれだけあるのだろう。わたしがそうだったからと言って、無理やり不幸な子どもを作り出すのは論外だし、失礼だ。しかし、人生の途中で寄り道を余儀なくされることはあるし、その寄り道こそがほんとうに歩きたい道だったと気付くこともあるだろう。
寄り道に飽きて王道なんていうものを追い求めたくなることもあるかもしれない。それでもときどき大げさに深呼吸をするように、寄り道をする。本を読む。

あの開かれた図書館ですら何者も迎え入れられない日が、この現代で発生した。それは衝撃だった。

本なんかなくたって生きていけるひとが大半なのかもしれない。でも本がなかったらこの空洞のような身体をどうやって慰めたらいいのかわからない。そんな日がいっぱいあって、かろうじて生きている、生きてきた、ようなどこかの誰かが。扉のまえで立ち尽くしている姿が見える。それはわたしの後ろ姿に似ているようで、似ていないよう。踏み切りの派手な点灯に照らされているような、白黒のまだら模様をしている。

夜に訪れる公園は静かで優しく、寒かったけれど居心地はよかった。あの小さな公園。昼間は子どもの声が良く響き、時折のろのろと車が通り過ぎる。
ベンチに座ってぼけっとする。ぼけっとしているようで、できていないけれど。それでもぼけっとしたとおもうことにする。居場所があることが重要だから。
ぼけっとするその数時間「雨が降らなくてよかった」とおもう。きょうは人生における晴れの日だからとでもいうみたいに。

あの頃、まだ運よく働いていた。運よくとしか言えない状態で、疲れ切った身体でまいにちをやり過ごしていた。
勝手にわたしという人格を生み、勝手にわたしという人生を与え、勝手に年老いていく母に脅され、死にそうに生き、働いていた。望まない人生に押しつぶされ、正論に殴られ、社会の常識に殺されそうになりながら生きていた。

ただでさえ息苦しいこの世界で、わたしはさらに苦役を強いられている。会いたいひとに会えず、行きたい場所へ行けず、観たい風景も禁じられるまいにち。
でも良かったのかもしれない。体調を再び大きく壊して、この情けない心身で社会へ出なくてはいけなかったとおもえば。道連れにするのは母くらいで済む。家を出たきょうだいに、数少ない友人に、生産性を重視する社会に迷惑をかけるのは本望ではないのだ。
生産性とはなんだろう。正しさという概念が主張する醜さに気付かない者だけが手にできる幻の薬だろうか。そんなものが生かすのは、鋼鉄の精神くらいではないのか。
醜さに気付かないふりをするのがわたしたちは上手い。気付いた瞬間、この世界からはじき出されてしまうから。前へ倣えが出来ないものは、不要だから。

本が読みたい。しかし図書館は遠い。あの無理を重ねた1年ですっかり疲れやすくなってしまった。地面に埋めた少しのお金を崩すようにして、買った本を大切に大切に読む。そこにあるのは世界でいちばんうつくしい宝物であるみたいに。田舎の小さな図書館が、世界でいちばん厳格だとでもいうみたいに。

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