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怪物たち 第3のリベロ Vol.30

映画に、こんな伝え方があろうとは。先日の逝去公表を受け、各局が放送した上岡龍太郎の追悼番組。NHKでは、「日本の話芸」のなかで演じた講談「浜辺にて」が紹介された。仲代達矢や岸部一徳が出演したロシアを舞台とした物語だが、お蔵入りになったという。検索しても公式情報に当たらないのもそのはず、終演後のVTRにて、架空の作品だということが明かされる。「他人のイメージを借りて自分の世界を伝える、僕のやったことは司馬遼太郎とおんなじなんです、そんなん言うたら怒られるかな」大見得を切っても、ちゃんと謙遜して和ませるのを忘れない。面白くて毒舌、なおかつ理知的な"おっちゃん"だった。自分の芸が通じるのは20世紀までだからと、還暦を前に2000年かぎりで引退。当時17歳だった私の未熟な脳裏にも、ここ関西では特に魅力的に映る人物像を体現した"恵まれない天才"の記憶は、しっかり刻まれている。紛れもなく、しゃべりの怪物だった。

相当な映画通だったに違いない上岡とは違って、私の映画鑑賞歴は微々たるものだ。たまに観るのもテレビの録画。映画館まで行って観たのは「MOZU」の劇場版が最後で、かれこれ7年半くらい経っている。そんな私でさえ、2,000円くらい払うのも惜しくないと思える「怪物」の封が切られた。監督は是枝裕和、脚本が坂元裕二。敬愛する二人のクリエイターが初めてタッグを組んだとなると、期待せずにはいられない。加えて、音楽は亡き坂本龍一。本作では悪者に近い意味で用いられる「怪物」だが、巨大な才能に恵まれた人びとのことも指すわけで、夢の共演を果たした3人を称える意味も兼ねたタイトルに思えなくもない。上映を待つ館内、コーヒーとお菓子がもっとも美味しく感じるひとときを、久方ぶりに味わってみたくなった。

作中、時計の針が繰り返し戻った。主人公の麦野湊が取り乱し、担任の先生を介入させたのは級友の星川依里への冷やかしが動機だったこと、その先生・保利道敏は暴行を疑われたが、湊を傷つけてしまったのは偶然だったことが解明されていく。保利先生が聞く耳を持たない先輩教師から圧力を受ける場面や、湊と依里との単なる男の子同士とは異質な関係が浮かび上がるに連れて、「態度の悪い先生」あるいは「闇を抱えた男の子」という先入観が覆されていく。着任して間もない先生、いじめの標的に寄り添う子、罪を被せられるのはえてして、不利な立場にある存在なのだろう。物事のどの場面を切り取るか、それによって私たちが抱く印象は容易く、いかようにも変わり得ることを暗示しているかのようだった。

永山瑛太や高畑充希、東京03の角田が並ぶキャストは、どちらかといえば坂元作品を彩ってきた面々が主体になっているように見えたが、安藤サクラとまだ名も無き子役二人を主演格に据えたあたり、是枝色もしっかりと打ち出されていた。ときが何度か戻ることで、すべての謎は解けるのかと思いきや、坂本龍一が自らのお別れに捧げたような「aqua」の音色とともにエンディングを迎える。いつか是枝監督は、自身の映画を観た者には「モヤモヤさせたい」願望があると語っていたが、本作が残したモヤモヤは過去最大級ではないだろうか。監督はまた、自作に複数回出演したリリー・フランキーのことを「善人にも悪人にも見える」と評価していて、保身のため狡猾に振る舞いながら掃除もこなして湊を励ます一面も見せた田中裕子が演じた校長先生は、まさにその役回りだった。巻き戻しの目的は伏線の回収ではなく、「可哀想な母子と冷たい学校」という単線の構図を、複線化することにあったのかもしれない。

嵐がやって来て、湊のお母さんと保利先生が湊と依里の秘密基地となっていた廃車の窓を開けたところで、物語の時間は止まった。冒頭に登場した火災は、その後も繰り返し出てきたのに、誰かの犯行だったのか、なぜ保利先生が居合わせたと噂されたのか、判らずじまい。保利先生はお母さんと和解でき、処分を免れたのか。嵐が去って草原へ走り出した2人の男の子は、無事に生還できたのか。それとも、あれは現実ではなく夢の描写だったのか。私の理解不足のせいもあるだろうが、本作はいくつもの謎を残したまま、幕を降ろした。まるで、巻き戻しボタンも無ければ撮影カメラも無く、後戻りできずに進んでいくばかりの世界、誤解やボタンの掛け違いが渦巻いて、あやふやなものはそのまま呑み込んでいく現実のなかへ、この映画ごと放り投げられたかのようだ。「悲しいから観る、観るから悲しい、映画はいつも人の心を動かします」―上岡は、「浜辺にて」の最後をそんな言葉で締め括った。怪物たちが紡ぎ出した映画は、しゃべりの怪物が語ったとおり、たまにしか観ない私の心をも、モヤモヤとさせながら動かしている。

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