落書きできる余白と遊び心がある毎日はきっと楽しい
今日は入学式だったのかな?始業式だったのかな?と思しき学生たちが、スーパーのだだっ広い駐車場でたむろしていた。
年度のはじまりに配られる新品の教科書。
紙の匂いとインクの匂いと、まだみんな肩にちょっと力が入っている緊張感が充満した教室の空気を思い出すと、いまだに甘酸っぱい気持ちがこみあげる。
そのうちクラスメイトたちの緊張も角がとれてお調子者は調子を取り戻し、なんとなくグループができあがる。
教科書も同じように角がまるくなって、アンダーラインが引かれたり、メモを書き込まれたり、自分の色に染まっていく。
中学校、高校になると教科書や問題集の貸し借りも日常茶飯事になる。
「2限、世界史の教科書貸してくれん?」と頼まれて貸した世界史の教科書。
5限で開いてみたら、正岡子規の写真に見事な落書きが施されており、笑いをこらえるのが大変だった。
…笑ってはいけない状況であればあるほど、笑いをこらえるのは困難である。
別の友だちに物理の問題集を貸したときには、クラスメイトの相当デフォルメされた似顔絵が表紙に落書きされて戻ってきた。
…それも油性ペンで。
返ってきたとき、腹がちぎれるほど笑った。
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今はなんでもかんでもWebで調べられるようになって、テキストを買う機会なんてほとんどなくなってしまった。
もしテキストを買ったとしても、資格試験の勉強でもない限り、線を引いたり書き込んだりするほど使い込まない。
誰かに貸す機会もなければ、落書きされて戻ってくることもない。
きれいな本は、きれいなままだ。
なんなら読み終えたら買い取りに出すことまで考えて書き込むことをためらうし、使用感が出ないように心がけさえする。
合理的といえば合理的なのかもしれないけれど、味気ない。
もはや本だけではない。
日常生活全般において合理性を求め、無駄を削ぎ落とし、遊びが入る余地がない。
貸した教科書に落書きされては、借りた教科書に「次はなにをお見舞いしてやろうか」と落書きして返すような毎日は、遊び心と創造力に溢れていた。
それに、手書き✕手渡しだからこその愉しみとわくわく感があった。
今や親指ひとつで文章も写真も送れるようになったけれど、ととのったフォントを使った画面越しのやりとりではやっぱり得られない感情だ。
第一、そんなくだらないものをわざわざ送りつけたら迷惑だという気持ちが働く。
借りた「ついで」の気軽さがちょうどよかった。
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人生に教科書は存在しない。
あるとしたらたぶん、問題集と、まっ白なノートだろう。
いろんな問題にぶつかるたびにノートに書き込みが増えていく。
それなら、そのノートをどんどん使い込んでいきたい。
人にもどんどん書き込んでもらいたい。
問題を解くヒントもありがたいし、実にくだらないがゲラゲラ笑えるひと言でも嬉しい。
きれいじゃなくていい。ととのっていなくてもいい。
教科書を貸し借りするあの頃にはもう戻れないけれど、正岡子規の落書きを超える書き込みを楽しみに、遊び心と余白を取り戻したい。
あの頃のように気楽にね。
今日も読んでくれてありがとうございます。
最近あなたが遊び心を取り戻した瞬間は、どんなときでしたか?