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父のこと

今日突然父から「元気か?」とラインで連絡が来ました。実家を出て10年近く経ちますが、こんな連絡が来るようになったのはこの2~3年の話です。

小学生の頃の父

父は無口な人で不思議な人でした。どことなく飄々としていて、家族に無関心、そう思っていました。

でも、私が小学生の時は、休みの日には必ず私を外に連れ出してくれました。行く場所は大体近所のデパートか車で10分のところにある祖父の家でした。オンボロの軽自動車は毎回に大きなエンジン音をふかしているのが、どこか気だるさとヤケクソ感を演出しているようでした。

その時間も父から話をしてきた記憶はあまりありません。私が学校のことを話しているときたまに相槌をする程度でした。食材の買い物がてらということで母と3人で出かけることも時々ありましたが、2人はほとんど話しませんでした。そのうち母は、父との買い物だと急かされている気がする、といって一緒に出掛けることはなくなっていきました。姉もそろっての外出はほとんど記憶にありません。小学生の私としては、外に出て車に乗って、100円のお菓子でも買ってもらえれば満足でしたので”家族の不和”は感じてはいましたがあまり気にしていませんでした。

無関心な父

しかし中学生に入ってから、その日常が徐々に変化し始めました。

姉の不登校で、母と娘の関係が悪化。それに伴って母の抑うつも激しくなっていきました。父はそのような状況でも何も変化はありませんでした。自分から母に話しかけることはなく、母から話をしにいってもビール片手に目線はテレビ。そんな父を母は自分に無関心だと言っていましたし、私もそんな父を家族に対して無関心だと感じていました。

運動部に入った私は土日も部活やら自主練やらあったので父と出かけることが少なくなっていき、1週間以上話をしないこともよくあるようになっていきました。2人になったとて向こうから話すことはなく、私も思春期真っ盛りだったので学校のことをベラベラ喋ることもなく、、気まずいのか気まずくないのかもわからない何とも言えない空気が漂っている気がして何となく父と2人になるのを避けていたような気もします。母とは話しますが、父に相手にされていない寂しさや抑うつの感情から最終的に「死にたい」という言葉が出てくるのが毎回の流れ、私はそれを自分なりに受け止めようと必死な反面、無関心でい続けられる父を憎く思っていた時期もありました。

無関心に見えていただけの父

私が大学進学をきっかけに一人暮らしを始めてから、父から連絡が来ることも、連絡することも一切なく、初めて来た父からの連絡は私が社会人になってからでした。

「あのなぁ、、お母さんが自殺しちゃった」

父からの連絡なんて、相当なことがあったのだろうと多少は覚悟して出ましたが、私の覚悟なんてこれっぽっちも役に立ちませんでした。

そんな中でも、その時初めて父の言葉に感情が入っている気がしたのを覚えています。何に対しても同じテンションで話す父が初めて困っている、気が動転している、と感じました。

母が亡くなり、母の主治医に最後の挨拶に行った際に少し時間をいただき先生と2人でお話をする時間をいただきました。母が生前診察室で何を語っていたのか、先生はどのような見解を持たれていたのか知りたかったからです。でもそれを聴くと父や姉が傷つくのではないかと思い、2人で少しお話させていただきたい旨を事前にお願いしていました。その中で先生は父のことについてこのようにお話ししてくださいました。

「お母さまからも、お父さまは無関心である、という風に伺っていました。お父さまに実際初めてお会いしたのは3か月くらい前でしょうか。お父さまと2人でお話させていただきましたが、お父さまは全然無関心な様子はありませんでした。むしろどうしたらいいのかとても困っているように感じました。”困っているけどどうしたらいいのかわからないからとりあえず様子を見る”これが積み重なっていってしまったように感じました。」

私は母の死を理解する目的で先生とお話していましたが、そのとき父のこれまでの苦悩を一番理解しました。

だから離婚を切り出さずに私にも母の愚痴を一切言わなかったのか。父の困り感に寄り添うことが母を支えることにつながったかもしれない。でも私も辛かったんですよね。私たち家族に何が必要だったのか。それは第三者からの支援だったと思っています。

家族のであることの難しさ、そしてこれから

他人が、家族の問題に介入するのはまだまだ日本では抵抗があることです。でも、当事者と同じように家族も辛い思いをしている。でも家族はしんどさや辛さを当事者以上に声としてあげにくい状況にある思います。世間の偏見もあるし、家族の問題だから家族の中でどうかしないとと抱え込んでしまう。その心理って自然な流れだとも思います。でも、どこか一つでも外に悩みを話せる場所があれば、安心して過ごせる場所があれば、つながろうと思えばつながれる情報システムの体制があれば、1ミリだけ見える世界が外に向くと思うんです。それは第三者にしか作れない。その1ミリって微々たるものかもしれないけど、1ミリ変化って本人にとっては大きいと思うんです。

その変化の種をいろんなところにちょこちょこっと撒く活動をしていきたいと、母の死をきっかけに思うようになり、大学の編入を決意、精神保健福祉士の資格を取りました。

今の私がいる原点は、母のおかげだけでなく、父のおかげでもあります。

母が亡くなってからの父も相変わらず無口です。相変わらず何を考えているのかわかりません(笑)でも、父なりに考えていることがあるのでしょうか、たまーに「元気か?」と短いラインがくるようになったので、昔のように最近の出来事をベラベラ話すようになりました^^

chiko.


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