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ADHDの頭の中 (母と娘と手芸)

ADHDと手芸などの手仕事との相性はいろいろ言われているが、わたしは手芸はひと通りある程度出来る方だ。もちろん手先が器用なわけではない。手先は人一倍不器用なほうだと自負(?)している。
ただ、ASD併発による過集中のためなのか、数々の手芸に手を出して慣れてしまっているのか何をやっても出来ない気がしない。
そして、そんなわたしの手芸経験には、母が関与している。

母と手芸

母はわたしの発達に興味を持たない人である。当然母から手芸を教わったわけではない。

わたしが学校でトラブルを抱えていても、いじめられているのをわかっていても、先生に何を言われていても、とくに何もしない人だった。
理由はいろいろあると思うが、わたしが小学校低学年の頃には夫婦仲が悪くて悩んでいたし、離婚後は弟の発達のほうが問題が目につくのでそっちに注意を取られていた。
なので、母がわたしの発達に気持ちを向ける余裕なんてなかったのかもしれない。

わたしは学校側からみれば厄介な特性を持っていたのは確かだけれど、母がどれだけ放置しようとわたしの成績は悪くなかったし、不登校になろうにも無理やり学校に送り出されていたし、越境で通っていた小学校は祖父母の家から見えるほどに近かったから逃げ場はなかった。

そんなわたしが手芸全般に手を出したのには理由がある。

父や祖父のいろいろなものを分解したのと同じく、奇妙なもの(それがよくわからないものであればあるほど)に手を出してしまうのだ。
小学校の高学年の頃から中高生の頃にかけて、家に帰るとよく居間のテーブルの上に何かが置いてあった。
それはなにかの手芸の道具一式とヴォーグ社や雄鶏社の手芸の本だ。
わたしはそれが母の仕業であることは知っていた。いつものことだからだ。

「ふぅ~ん・・・」

わたしは本をみて、テーブルの上に置いてある材料と道具を見比べる。
(なるほど、これを作れってか)
材料は、母がざっと本をみて揃えているわけだから、材料を見れば母が何を作らせようとしているのかがわかるということだ。

記憶しているだけでも、パネロン(不職布)フラワーやペーパーフラワー、文化刺繍(ニードルパンチ?)、アンダリア、フエルト人形、リリアン、あみぐるみ、ビーズ手芸、和紙人形とかも作った。まだまだ他にもあると思う。というのも、それをきっかけに色々な手芸に手を出してきたからで、その後自分で始めたことと、母の策略にはまってやったことの境目がちょっとわからなくなってきている。

わたしは、手先はどちらかというと不器用で、工夫することで何とか人並みに作り上げることはできたのだけれど、もともとクリエイティブでも何でもなかった。

図画工作の時間がとにかく苦手だった。何を作ったらいいのか全く思い浮かばず、真っ白な画用紙を目の前にして2時間なにも出来なかったこともある。
でも、これを作れと言われれば、工夫して上手に作ることはできるのだ。でも、自分で考えて新しいモノを作り出すことは得意ではなかった、

母が、わたしが興味を持ちそうなものを見つけてきて置いているのかなと思ったこともあったが、蓋をあけてみればそうではなかった。

母は、モノを作るという意味では、わたし以上に不器用なほうで、さらに言えば作り方も雑なほうだ。だから、家に母の手作りの品などは一切ない。
そんな母だが「家庭科を教える教師が居ない」という理由で家庭科の専科をやらされたこともあったし、手芸クラブの顧問でもあった。
テーブルの上に置かれた手芸道具と材料、手芸の本は家庭科の授業や手芸くクラブに使う教材だったのだ。
わたしがその中から適当に見繕って作品を作ると、翌朝にはそれは綺麗サッパリ消えていた。

母の教え子の皆さん。
あなた方が見本として見せられていた手芸作品は、すべてわたしが作ったものです(笑

そういう、わたしが作った「お手本」の数々に対して、母が少しでも感謝をしてくれていれば、本をみて夜遅くまであーでもないこーでもないと工夫して作ったことにもいくらか救いがあるのだけれど・・・。

母はとっても都合のいい頭の持ち主で、その場で思いつくままに嘘をつき、自分でもそれを本当のことと思い込んでしまうという能力を持っている。
手芸の道具は、娘が興味をもったから勝手に使ったもので、作って満足したから今は自分のものである・・・ということらしい。
ということで、わたしが作ったお手本は、わたしの手にもどってくることはなかった。

わたしとしては、別に興味があったわけじゃないけれど、置いてあったのはいつも手芸クラブがある日の前日だ。材料のまま翌日持っていくつもりなら、翌朝もっていく荷物にいれてしまえばいいことだ。それをわざわざ居間のテーブルに、「さあ、これを使ってください」と揃えて置いてあるのだ。魂胆が見え見えである。
いっそ放置して困らせてやればよかった。

いや、一度、本気で全く興味がわかなくて放置したことがある。
文化刺繍というやつだ。ペン状の器具に手芸糸をセットしてプスプス刺すというよくわからない手芸だった。糸をひっぱるとボロボロとほどけて取れてしまうのと、塗り絵みたいなものだったので、面白いとは感じなかった。
日曜日に母が必死にプスプスやっていたのを憶えている。

母の虚言癖と性質

娘は母親に厳しいというけれど、うちの母は適当で雑だった。
働いているんだから仕方が無いという人もいるのだろうけれど、お休みの日も特に何をするということでもない。食事もワンパターンになっていたし、掃除も洗濯も適当。
わたしは普段は部屋が片付かないけれど、たまに自分でも嫌になって昼夜ぶっ続けで徹底的に掃除をすることがあった。その集中力には母もあきれていた。

母は部屋が散らからないように片付けはするけれど、母の片付けは「見た目をきれいにすること」であり、母の押し入れを開けると荷物が崩れて降ってくるという状態だった。(その押し入れは、わたしの徹底掃除のときに巻き添えで整理された)
この片付け方は、母の性質をよく表している。
母は外づらを非常に気にする性質だった。だから、仲の良い同僚の先生方に対してはものすごくいい顔をする。そのために母の友人が家に来るときは家にいられないくらいの雰囲気だった。
でも、母の性質を見抜いている人からは、かなり陰口を叩かれていた。
用事があって母の職場に立ち寄ったことがあるが、わたしの素性を知らない先生が母の陰口を言っていたのを聞いてしまったこともある。

母は「季節の行事は大事」だと言い、お正月や節分などにやるべきことは極力やるようにしていた。そのわりに、年末におせちを作るのはいつもわたしで、その作り方もわたしが本で調べて工夫して作るので、母の仕事はわたしが書いたメモを持って買い物をしてくることくらいだった。
こういったことに対する考え方は、わたしと母では真反対で、母は皆やるんだから当たり前にやることと考えていたけれど、わたしはもともと意味があって始まったことなんだから、その意味を理解してやることが大切と考えるタイプ。

それを指摘すると、母は「あなたはお母さんに厳しい」と言っていたけれど、そうではなく「理屈にあわないことに厳しい」だけだ。
そういうところを曲げられないのが、わたしのASD的なところなのかもしれない。

話しても、母は感情論で、わたしは理屈でいうから交わるところがない。
だから母はわたしとの口論が嫌で放置気味になっていたのかもしれない。

「あなたは自分で出来ちゃうから」
というのが母のお決まりの答えだった。
(今でもそれは変わらない)

だから、わたしに関しては「必要なものを買い与えて、必要なときにお金を出せばいい」と思っていたということらしい。
わたしが何でも出来るわけがない。人一倍不器用なのだ。だから調べて理解して工夫しなければ先に進めない。考えた末にやっと起こす行動に対して「何でも出来ちゃう」といわれるのは心外だ。

高校受験のときも、自分で考えて受験先を決めて受ければいい。学費の高いところは無理だということしか母は言わなかった。
受験の資料をみせても何も反応しなかった。

しかし、弟に関しては、高校受験の資料や弟の模試の結果をみせて、わたしに分析させ、母が勝手に受験先を決めたし、大学受験の願書もわたしに集めさせた。
さらに言えば予備校の願書も集めて来るように言われた。(わけわからん)

けれど、母が「何でも自分でやる」ようにわたしを仕向けたことで、わたしは日々の困った事を親に相談する事ができず、「仕方ないから工夫」して、自分でやっていけるように変わっていくしかなかったので、結果として母のおかげでわたしは今日までやってこれたのかもしれない。

高校以降のわたしは、中学の頃にとあるきっかけでノートを書けるようになって(それでも苦手なことには変わりはなかったけれどw)から、勉強も人間関係もちょっと楽になった。思っていることを文字にすることで、考えを言語化することに引っかかりが少なくなったし、他人の言葉を聞き取ることも容易になったように感じた。

忘れ物をするのが嫌だから、教科書もノートもロッカーに入れっぱなしだったし、宿題は堂々とやっていかなかった。何か言われたときは、メモがとれなければ後でもう一度言ってくれるように頼んだり、そうするほどでもないことは断ることもおぼえた。
出来ないことを出来ないと、図々しく主張することが出来ることで、人生ずいぶん変わるもんだなと思った。

教科書やノートを家に持ち帰らなくても生きてこれたのは、高校時代までだと思う。
家では全く勉強をしない子で、母が
「そろそろ中間テストじゃない?」
「昨日終わったよ」
なんてのが、うちの日常だった。
大学時代は試験範囲が半端なく広く、理解はともかく憶えなければいけないことが多すぎるので、夏休みくらいは教科書を自宅に持ち帰っていた。
宿題をやっていかないわたしも、レポートを出さなければ単位はもらえないし、単位が足りなければ留年である。必要に迫られて課題をやるということも、手帳にスケジュールを書き込むことも大学時代についた習慣だ。

母は、わたしが厄介なことを家に持ち込まないことを良しとしていたらしくて、わたしが家の外で何をしていたかについては興味がなかったのだろう。家で勉強をしないことについて何も興味は持っていなかったと思う。
わたしが大学生時代に元彼からストーカーされて「殺される」と相談したときは、相当のショックを受けていた。(このときは警察官をやっている親戚に間に入ってもらうこととなった)

けれど、そのことも母はもう忘れてしまっているんじゃないかと思う。
それほど母の記憶はいい加減なのだ・・・。

母は忘れているけれど、参考書も受験料も模試の費用も母にグダグダ言われるのが嫌でバイトして自分で出した。学費を半分父に出してもらったことさえ、母は忘れている。
自分に都合の悪い話は一切記憶に残らないか、都合よく改ざんして憶えている。

子供の頃には母が嘘をついていることなど気づきもしなかったが、大人になって考えればおかしな話はたくさんある。だから、その場の思いつきで話を作ってしまうことは、母がもともと持っていた性質なのだろう。

父との離婚について、その原因を母に聞いても多分本当のことは言わないだろうし、実際聞いたことは何度かあるが、そのたびに違うことを言うので言いたくないか、よくわかっていないのだと思う。
父に理由を聞いたときも話してはもらえなかった。
けれど、母の性質を考えれば、まあ、続かないだろうなとはわたしでも思う。

今は高齢者となった母だが、都合のいいことばかり延々としゃべるし、作り話も多いので、あまり電話などでも長話をしないようにしている。

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