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タンザニアで考えたこと (その5)

はじめに

ウン十年前にタンザニアでボランティア活動をした時に、経験したこと、考えたこと、感じたことを書き記したエッセイ「タンザニアで考えたこと (その1)、(その2)、(その3)、(その4)」からの続きです。若気の至りで語気がかなりきつい箇所が多々あって、ご不快になるやもしれませんが、原文のまま掲載いたします。お許しあれ❗️

# 車とタンザニア人

日本で自動車ブームが巻き起こったように、ここでも車に対する関心は高い。といっても、ダットサン(日産の旧名称)と言われる車やメーターのない車、ドアのない車が走っているのだから、どんな車に関心を寄せているのか、想像できるだろう。

それぐらいならまだ良い。一度など私の目の前で、走っていた車の前輪のタイヤ2本が、突然分離し左右に転がっていったのだ。車は路面に2本の筋を残して止まり、運転手は慌ててタイヤを追いかけていた。我が目を疑う光景に触れて、思う事は、「日本の皆さん!ここではこんなにひどい車に乗っているのです。ちょっと型が古くなった位で、次から次へと買い換えるなんて、なんとも贅沢なことだと思いませんか」ということである。車なんて安全に動けばいいと思うのだが。

また、ここの車はウィンカーなどないものや、壊れたものが多い。後をオートバイで走っていると、にゅーっと右手が窓から出てきて上下に動きだす(あ、タンザニアは日本と同じ左側走行である。イギリスの植民地だったところは皆そうだ。でもモザンビークも左だった。ポルトガル領だったけど)

これは右に曲がると言う合図だとわかった。では左に曲がる時はどうするのか。右手をぐるぐる回したら左折ということらしい。これって国際ルールなのだろうか?

かと思えば、珍しく右のウィンカーが点滅しているので、右に曲がるんだなと思っていると、やおら左に曲がる。それがポリスの車だったりするのだから、ここの交通ルールは、どうなっているのだろう。

それから、気をつけて運転していないと、対向車線を飛び越えて平気で逆に走ってくる車もある。一瞬、自分のほうが悪いのかなという錯覚に陥る。これでポーランドの専門家が命を落としている。私が大型トラックの運転手だったら、絶対に避けたりしないのだが、90 CCのオートバイではかなわないから、運転手をにらみつけながらすごすご隅っこに退く。

通勤途上で、何台ものバスが打ち捨てられているのをよく見かける。メンテナンスをする人材がいないので、突然このような事態になるのだろう。今どき日本では珍しい、エンジンが前に付いた、先の出っ張ったバスである。ドアは無いし、床にぽっかり穴が開いていて道路が覗けたりする。ここに、定員の何倍もの人が押し合いへし合い乗り込む。ドアのデッキには、何人もの人がぶら下がって乗っている。時々振り落とされると言うから恐ろしい。

また、運転手の都合で行くルートが変更になる。自分たちの台所用の炭を届けるためだったり、他のプライベートの用事のためだったりする。バスには時刻表と言うものがないから、来ないときには2時間も3時間も来ない。しかし、誰も文句一つ言わず、ずっと待っている。待つことに慣らされてしまったのだろう。

ここでは、何をするにも行列しなければならない。病院でも、郵便局でも、切符売場でも。何が苦痛と言ってこれほど苦痛な事は無い。しかも、待てば必ず手に入ると言う保証は無いのである。2時間待って、今日は終わりなんて言われることが往々にしてあるのだ。そんな時に、Bahati Mbayaの一言で済まされたら、怒りの行き場がなくなってしまう。こんな不安と暑さの中で、待つのは耐え難い。

話がバスからそれてしまったが、その人を満載したおんぼろバスが、ものすごい排気ガスを放出して走るのである。だから通勤時バスの後になるかならないかで、その日の衣類と顔の汚れ具合が違ってくる。

何とかバスを追い越そうと必死になって、スピードを上げると、バスの運転手も追い抜かれてなるものかと私の邪魔をする。この熾烈な競争は、毎朝繰り広げられるが、戦いに競り勝ったときの気持ちの良さと言ったらない。これが親切な運転手だったりすると、ニューっと手が出て「前に行け」の合図をして、道を譲ってくれる。私の肺は、この排気ガスでおそらく真っ黒に違いない。心なしか鼻毛の伸びが早いように思えるのだが。

車と言えばもっと怖い話がある。Safari (注 Safariサファリは、スワヒリ語で一般的な旅を意味し、狩猟のための旅だけを意味しない)に出て、車で走っていると横転したり、逆さまになったりして、崖の遥か下のほうに打ち捨てられたトラックをよく目にする。

その真相たるや、聞いてびっくり。道路が下り坂になったところで、運転手はガソリン節約のために、エンジンを切ってしまうのだそうだ。惰性で車は走りはするが、そのうちにコントロールを失い、あえなく墜落と言うことになるらしい。

何人の命が失われたかは知らないが、命をかけてまで節約しようとするこの状況を、先進国の人々はどのように感じるだろうか。ガソリンは極端に不足していて、指定された曜日にしか買えない。日曜日の午後は車での外出は禁止である。この状況は滞在2年目になるとさらに悪化した。 

# タンザニアの民話

タンザニアの民話の主人公は、なんていったってウサギである。あの愛くるし赤い瞳、ふさふさの毛並み。それはもう、可愛らしさの象徴であり、主役にはぴったりだと思うに違いない。が、所変われば、考えや価値観まで変わってしまうらしい。タンザニアの民話に現れるウサギは、とにかくずる賢い。悪知恵を常に働かせ、他の動物たちを騙したり、出し抜いたりして得をする。さらに、騙される方が悪いのだと言う論理で、うさぎが罰せられる事は決してない。それがタンザニアの人たちの「知恵」と言うものらしい。現に、ウサギはこの国の知恵のシンボルでコインの図柄にもなっている。騙すより騙される方が悪いなんて弱者にはなんと酷な話。一口に「知恵」と言ったって、彼我ではこんなにも違う。タンザニアの神話は、ちょっと辛口で残酷。しかも、正義が勝つと言うエンディングにはならない。それが私には、釈然としないのだが、現実はこんなものだろう。勧善懲悪なんて言う理想主義は通じないのだ。

# 映画

タンザニア人は皆、映画が大好きである。ブルース・リー、007に熱狂している。圧倒的に多いアクション映画に混ざって、時々日本で見逃した外国映画、それも日本で放映されて1年と経っていない新しいものがやってくる。

映画館の座席は、ひと昔前の日本にもあった、あの硬いベンチである。1つだけ、ドライブイン・シネマと言って、車ごと入場する野外の映画館がある。心地よい夜気に包まれて、夜空の星を眺めながら、巨大なスクリーンが楽しめる。

良い映画がかかっているときは、ものすごい人だかりである。行列して、何とか切符が手に入れば良い。が、これができない時がある。そんな時、がっくりと肩を落として帰ろうとすると、いかがわしいおじさんが切符をちらつかせて、買わないかと近づいてくる。初めて、この種の人に話しかけられたとき、しばし理解ができなかったけれど、「はーん、これがダフ屋か。」と納得。

「で、いくら?」と尋ねると、通常料金(10シリング)より5シリングも高い。時に、2倍もする時がある。しらばっくれて、いらないと言う顔をしても、相手のおじさんの方が絶対強気。なんとしても負けさせられない。これが野菜や魚であったなら半額にだってして見せるのに。仕方なく相手の言いなりの値段で買ってしまう。

いざ映画が始まってみると、映画の英語なんてさっぱり理解できない。「確かにいい映画なのだ」(日本のみんながそう言っていたのだから)と自分に言い聞かせて見るのだが、さっぱりわからない。しかも、何とか理解しようと、神経を集中させ、苦虫を噛み潰し、耳をダンボにしているときにーそれがなまめかしいラブシーンだったりするのだがー口笛が鳴り、拍手やヤジが入るものだから、集中力がいっぺんに吹き飛んでしまう。かくして、高いお金を払い、ちっとも満たされぬままに、虚しく家路をたどるのである。それでも、良い映画が来たと言っては、また懲りもせずに出かけていくのである。

ーTo be continued 続くー

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