見出し画像

今日ときめいた言葉57ー「過去にどんなことがあったかなど、あなたの『いま、ここ』には何の関係もないし、未来がどうであるかなど『いま、ここ』で考える問題ではない」

この言葉は、「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健 著)の中に記されている。この本は、哲人と青年の2人による会話形式でアドラー心理学の考えを解説したものである。

タイトルの言葉は、人生を線としてとらえる従来の考え方ーーつまり、「いつどこで生まれて、どんな幼少期を過ごし、どんな学校を出て、どんな会社に入ったか」と言うように、人生を因果律に基づく物語としてとらえて、だからいまの私がいて、これからのわたしがいるという考え方(フロイド的な原因論の考え方なのだとか)ーーを否定して、発せられたものである。

アドラー心理学の立場は、「人生は、線ではなく点の連続」であると考える。つまり「人生とは、連続する刹那」であると。だから、われわれは、「いま、ここ」にしか生きることができないのだと。

世の大人は、若者に「線」の人生を押し付けようとする。いい大学、大きな企業、安定した家庭、とそんなレールに乗ることが幸福な人生なのだと。しかし、点の連続でしかない人生に、計画的な人生など不可能であると言う。

人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しない。過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、「いま、ここ」を真剣に生きていないからであると。

どこに到達したかを線で見るのではなく、どう生きたか、その刹那を見る。目標などなくてもいい。「いま、ここ」を真剣に生きること。人生は常に完結しているのだと。

では人生が「いま、ここ」にしか存在しないと言うなら、「人生の意味とは何か?人は何のために生きるのか?」

アドラーは、「一般的な人生の意味はない」と言っているそうだ。「人生の意味は、自分があたえるものだ」と。つまり「人生一般には意味などないが、私たちは自分の人生に意味を与えることができる。自分の人生に意味を与えることができるのは自分自身だけなのだ」と。

人生の終わりに近づいている今でも、まだ「どう生きるか」とか「自分の人生はどんなものだったのか」とか、たびたび考える。「人生は線ではなく、刹那の連続だ」というアドラー心理学の考え方を知っていたら、中途半端な自分の人生を恥じたりせず、心に悔いを抱かずにもうちょっとイキイキと生きられただろうか。

思えば、人生の節目節目で、私は選択し決断してきた。でも、その選択は、常に初めに自分が望んでいたものとは違うものだった。

中学の時、地元の高校ではなく学区外の高校に行きたいと思っていたけど周りの反対で結局断念した。その時、私よりずっと成績の低い人が合格し学区外に出ていった。

進路は、ずっと英文科志望だったのに受験した大学は全滅し、滑り止めだった関西の大学の社会学部だけに合格した。浪人しても英文科に行きたいという強い意志もなかったから、即、路線変更してその大学に入学した。

東国の人間が東京を通り越して西に行ったので都落ちと言われた。でも西の文化圏は肌に合わず東京の大学に編入した。編入先も自分が行きたいと思っていた大学より先に合格通知が来た大学を選んだ。教員免許を取ったのも教師になろうと思っていたからなのに、結局出来立てホヤホヤの損保関連の会社に就職した。

でもここで終わりたくないという思いは強く、一念発起し日本語教育講座や英語学校で学び、日本語教師の海外ボランティアに応募した。2回目の受験で一次通過したが、面接で秘書の職種があると言われ、またも路線変更。全て自分の思い描いていたこととは違う選択をしてきた人生だった。

ここで結婚(これだけはいい選択だったと思っている👍)と同時に英語を本格的に学び始めて1年半後、国立の機関で日本語教育教授法を学んだ。コース修了後、夫のマレーシア転勤が決まり帯同。この時も日本語教育の知識を活かした仕事が決まっていたのにそれを辞退した。一緒に学んだ人々はすでにベテランの日本語教師になっている。

マレーシアに帯同し、秘書兼通訳として働いたものの自分の中途半端な人生という思いが残り、オーストラリアの大学院に入学。しかも2人の子連れで。これも挫折した。

私が初志貫徹したことは、3人の娘を日本の教育制度ではなく外国の教育制度で教育したことだけだ。日本の学校教育は自分だけで十分だと思っていたから、マレーシアでインターナショナルスクールの教育を体験してしまったら、もう日本の学校で教育したいと思えなくなっていた。よその国の教育を試してみたかった。

その教育費を稼ぐために嫌悪していた日本の学校で働いた。皮肉なことだ。でもこの間、大学院に入り修論を書き修士号を取得したことは、中途半端な人生という思いを少し軽くした。

直線を登り詰めるような人生を送ってきたわけではないけれど、「いま、ここ」を真剣に生きてきたかと問われると肯定的な返答ができない。反対に刹那を真剣に生きたと自信を持って言える人間がいるのだろうかと思ってしまう。

でも「自分の人生に意味を与えるのは自分自身だけである」と言う言葉には、励まされる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?