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タンザニアで考えたこと (その1)

まえがき

本棚を整理していたら、タンザニアでボランティアをした二年間に体験したこと、考えたことを書き留めたエッセイ「タンザニアで考えたこと」が見つかった。書いたのは、活動を終えて十五年たった頃で、今からニ十数年も前なのに、読み返してみて、今の世の中の状況について語っているかのような内容だったので、愕然とした。まさに、ウォルフレンの「いまだに人間を幸福にしない日本というシステム」の題名のようだ。これを書いた二十数年前も、いやタンザニアに赴いたころも、私は現在のように感じ、憤っていたようだ。

と言うことで、ウン十年も前の「タンザニアで考えたこと」を何回かに分けて投稿してみたい。このエッセイは、私の好きだった「どくとるマンボウ航海記」(北杜夫 著)に書かれたあとがきのような視点で書こうと思って、書いたものである。即ち;

「大切なこと、カンジンなことはすべて省略して、くだらぬこと、取るに足らぬこと、書いても書かなくても変わりはないが書かないほうがいくらかマシなことだけを書こう」

*(本文は、ウン十年前にタンザニアで、考えたこと感じたことをそのまま掲載している。若気の至りで語気がかなりきつい箇所が多々あって、ご不快になるやもしれませんが、原文のまま掲載いたします。お許しあれ❗️)

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# Batati Mbaya (バハティ ンバヤ 運が悪かった)

Batati Mbayaは、スワヒリ語で「運が悪かった」の意味で、タンザニア人は人生の困難をこの便利な言葉で、乗り越えているように思う。この言葉を耳にすると、はじめムカっとするが、次第に運命を受け入れようと言う気持ちになるから、不思議である。あらゆる場面でこの言葉に遭遇する。例えば、買い物をして、店にお釣りの小銭がないと”Bahati Mbaya”で済まされてしまうなんてことはしょっちゅう。

都合の良い言い訳にも、あきらめるための呪文にもなる便利な言葉である。私も二年間、悲惨な体験も、恐怖の出来事もみんなこのBahati Mbaya で乗り切った。

また、ここでの二年間は、否応なく外から日本を考える二年間でもあった。醜悪な日本と日本人ばかりが、目に飛び込んできた。極め付けは、アフリカくんだりまで、日本を背負ってやって来る政治家と、それに振り回されるお付きの役人たち。

タンザニアに来て初めて、南北問題を目の当たりにした。それは私の価値観や人生観までも変えてしまうくらい強烈な体験であった。私が当たり前のように享受している幸せを享受できないでいる人たちが地球上にいると言う事実、この不平等。我々はあらゆる英知を結集して、この問題の解決法を探さなければならない。地球上の人類、いや、生物との共存は、我々が取り組まなければならない課題である(注: ウン十年前に感じたことだけど、未だに解決のメドは立ってない)

なのに、日本は別世界のようである。我、関せず!国際社会の一員としての意識が、とっても希薄に見える。日本の学校教育で、いや、社会全体で関わらなければならないのに、この無関心ぶりはどこから来るのだろう。日本はますます孤立してしまうのではないかと、とても心配である(注: 2021年の今も同じ様な状況!)

# 泥棒

どこに行っても、これにだけは注意していなければならない。駐車中のオートバイのバックミラー、混み合ったバスの中での腕時計、干している洗濯物、そして、いつもは2つかけるはずの鍵を1つかけ忘れた時、必ず彼らは見ているのである。このカギの例は、前年に起こった。たまたま1つかけ忘れたために、金目のものが、あらかた持っていかれてしまったのである。

我々日本人ボランティアは彼らのお得意様で、新しいボランティアが到着して3日もすると必ずと言っていいほど寮に泥棒が入る。全く凄い情報力だ。3階だろうが4階だろうが、あの気だるそうなタンザニア人のどこにそのエネルギーがあるのかと思うほど、軽業師のごとく、木を登り、ベランダを伝い、ガラス窓を外し、侵入してくるのである。

また、外から釣竿でズボンを釣り上げたり、ジャッキで鉄格子を押し広げたり、と言う究極の奥の手も駆使する。そして、毎回、カメラ、ラジオ、時計、衣類、ウィスキー等々、ごっそり持っていくのである。二台のオートバイを鎖で繋いでおいたら、二台もろとも消えてしまったことだってある。

盗品ばかりを引き取って、売っている店もあるとか。あるボランティアは、そんな店の1つで、自分の持ち物に再会したそうだ。

私は、アパートの1階に置いた自分のオートバイの見張りのためだけに、ガードマンを雇っていた。夕暮れ時になると彼はやってきて、オートバイの隣で夜を過ごし、朝になると帰っていく。ある夜、泥棒がやってきて、隣の住人のオートバイを盗んでいくと言う事件があった。それは私のと全く同じ形のオートバイであった。

ガードマンがその泥棒に、「盗むな」と言ったところ、その泥棒は、「お前の主人のオートバイを盗むわけではないんだから、お前には関係のないことだろう。邪魔をするとお前の足をへし折るぞ。」と言って脅したそうである。

かくして、隣人のオートバイは、ガードマンの目の前で、悠々と盗まれていったのである。そして、ガードマンも泥棒の言葉に妙に納得して、朝まで騒ぎたてる事はしなかったのである。ガードマンによると、その後も、泥棒は何度かやってきたそうである。でも、私のオートバイは盗まれる事はなかったので、泥棒とガードマンの間に、先ほどのような会話が交わされ、取引が行われていたのであろう。

ちょっと、納得できない気もするけれど、両者の間に仁義でもあったのであろうか。そんな訳で、2年間のタンザニア滞在で、幸運にも、泥棒に遭遇する事はなかった。誰もが1度は、被害に遭っている中で、これは極めて珍しいことである。と言うと、皆は口を揃えて、「子供だと思われているんだから、泥棒になんか相手にされるわけがないだろう。」と言うのである。

何たる侮辱と息巻いて見ても、悲しいかな、その意見を甘んじて受け入れなければならない。と言うのも、それを立証するような出来事があったからだ。

いつものように、朝、オートバイでオフィスに向かっていると、交通整理のお巡りさんが手招きをする。仕方なくオートバイを降りて、道路の端っこに止めると、お巡りさんがやってきて、「子供がオートバイに乗ってはいけない」と言うのである。私はぶ然として、「子供ではない」と繰り返し説明しても、全く取り合ってくれない。仕方がなく IDカードを取り出して見せると、本当に驚いた様子で、しげしげと私の顔を見つめる。

私、身長152センチ、体重45キロの貧弱な体格。タンザニア人の中にいたらまさに子供も同然である。すると、今度は矛先を変えて、「結婚しているのか」とか「どこに住んでいるんだ」とか「どこで働いているんだ」とか矢継ぎ早に質問してくる。そして、お決まりのように「子供はいるのか」と聞くのである。私が「独身だ」と言っているにもかかわらずである。

#ポリス

さて、泥棒に入られるとポリスがやってくる。お決まりのレポートを書いて、「まあ、運がよかったら捕まるよ」なんてと言われておしまいである。

最近起こった盗難事件を担当するポリスマン、サムソン氏がオフィスに電話をかけてきた。彼は、私が日本人で、スワヒリ語を話すと知るや、お決まりの質問をし始めた。そして、例によって、「子供はいるのか」もである。一体何のために電話をかけてきたのかわからない。盗難事件なんてそっちのけである。

それから連日、日に2〜3回電話をかけてくる。「元気か?いつポリスステーションに遊びに来てくれる」なんて言う始末。「縁起でもない。そんなところに行くもんか」と腹の中で思いつつも、「そのうちね」なんて答えておく。

でも、ある日、いい加減うんざりしてしまったので、「私のオフィスに遊びにいらっしゃいよ」と言ってしまった。そしたら、なんと即座にやってきたのである。用があって呼んだ時は来ないくせに、この現金な態度。

ちょうどボランティアたちが5〜6人居合わせたので、タンザニア警察の可能性と限界について、熱心に議論をし始めた。まだ少年のような顔をしたサムソン氏は、チェコスロバキアで学んだことをしきりに自慢していたが、ボランティアの1人に、「そんな国に行ってもだめだよ。タンザニアの犯罪率から言ったら、ニューヨークにでも行かなきゃ」とからかわれ、さすがに彼もカチンときたらしかった。

しかし、公務中にのこのこやってきて、おしゃべりしているのだから、こう言われても仕方あるまいね。ポリスには容易になれるが、給料はかなり安いらしい。だからポリスと言えどもチップを要求するのかなあ。

ーTo be continued 続くー


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