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短編『東京湾メルトダウン』 福島原発事故とコロナ禍

パンデミックと原発事故が同時に起こったら

『東京湾メルトダウン』は2021年3月20日に書いた5248文字の短篇です。
日本における新型コロナウイルス感染症の流行は2020年2月、クルーズ客船ダイヤモンド・プリンセス号の横浜港への帰港から始まりました。
2023年5月に感染症法上の分類が2類から5類に引き下げられ、コロナ禍と呼ばれる事態は終結しました。
小説を書いた時期はコロナ禍の最中で、緊急事態宣言やまん延防止等重点措置の発令と解除が繰り返されていました。
マスクの着用が常識とされ、電車の中でマスクをしていない人は極めて少数派でした。不要不急の外出は自粛するようにという呼びかけがなされていました。
このような事態の中で原発事故が起こったらどうなるのでしょう。被曝を避けるため、事故現場から離れなければなりませんが、それは必然的に感染者の外出を伴います。


原発事故による避難

福島第一原子力発電所事故は2011年3月11日に発生しました。
福島県大熊町や双葉町など7市町村の約309平方キロメートルが帰還困難区域に指定され、2万人以上の人が域外へ避難し、他地域で居住しなければならない事態となりました。
大量の核燃料デブリを取り出す目途は立っておらず、廃炉はいつになるかわかりません。事故はまだ終わっていないと言えるかもしれません。

国道6号線の通行規制

帰還困難区域内を走っている国道6号線は通行止めとなりました。
2014年9月15日から自動車に限り、通行止めが解除されました。この時点では、歩行者、軽車両、原動機付自転車、自動二輪車は引きつづき規制対象でした。
通行できるようになった6号線を走り、自動車の助手席から写真撮影をしました。

放棄された店舗

原発事故のことはずっと気になっていました。
コロナ禍と原発事故が無意識下で複合したのでしょう。小説のアイデアとなり、『東京湾メルトダウン』を書きました。
いま読むと、すでに古びているのを感じます。コロナ禍の記憶の風化が始まっているからでしょう。
原発事故もコロナ禍も忘れてはならないと思います。

小説本文『東京湾メルトダウン』

 令和〇年4月10日午前11時11分のことだ。あ、1111、と思ったときだからよく憶えている。
 ドオォォォン、という鼓膜を突き破りそうな凄まじい音が聞こえて、私はペンタブレットを動かすのをやめた。
 私は土峰凛音。あまり売れていない二十三歳の少女漫画家だ。ペンネームはみねりおん。
 売れていないから、アシスタントは一人だ。星野里美という大学の後輩に手伝ってもらっている。彼女は二十一歳で、漫画研究会に所属している。絵は私より上手いと思う。私はキャラクターを描き、里美は背景を描いている。
「何の音でしょうか、りおん先生」
「わからないよ」
 私は賃貸マンション五階のベランダに出て、信じられない風景を見た。空にヒロシマやナガサキの原爆写真で見たようなキノコの形をした雲が浮かび上がっていた。直感だが、おそらくヒロシマよりさらに禍々しいものだ。
 すぐにテレビをつけた。
「臨時ニュースです。東京湾で大爆発が起こりました。爆心地は横須賀沖と見られています」
 テレビ画面では東京湾で今なお爆発が続いていて、大量の水蒸気を巻き上げているようすが映っていた。私は戦慄した。
「なんなの、これ」
「わからないけど、核爆発みたいに見えますね」
 私の住居兼作業場は東京都江東区門前仲町にあるマンションで、もし横須賀沖で核爆発が起こったのだとしたら、無縁ではいられないだろう。
 私と里美は漫画描きを中断し、テレビを注視した。
「臨時ニュースをお伝えしています。東京湾横須賀沖で大爆発が起こり、巨大な爆雲が発生しています。爆雲の成分の大部分は東京湾の水蒸気と見られています」
 テレビは大した情報を伝えてくれない。
「りおん先生、もしかしたら、福島原発事故みたいな大変なことが起こったんじゃないですか」
「それ以上のことが起こったのかも。あのときは水蒸気爆発で原子炉建屋が爆発しただけだったけど、今回の爆発は明らかにそれより大規模よ。でも東京湾でってどういうことだろうね。原子力発電所はないし……」
 私は首を傾げた。里美は腕組みをした。
「もしかしたら、避難した方がいいんじゃないですか?」
「そうかもしれないけど、どこへ逃げるか判断するのに情報が必要よ」
 私は開けっ放しにしてしまっていたベランダに出る窓を閉めた。そしてリュックサックに貴重品や着替えの下着やペットボトルに入ったスポーツドリンクやカロリーメイトやマスクなどを詰め込んだ。里美は小さな鞄しか持っていない。埼玉県蕨市の実家からアシスタントに来てくれただけだから、持ち物は少ない。私は彼女にもう少し大きな鞄を貸して、ボトル飲料やカロリーメイトやマスクをあげた。
「政府から発表があります」とテレビのアナウンサーが伝えた。「官房長官が記者会見を行います」
 テレビ画面に官房長官が現れた。新型コロナ対策でもよく顔を見る人だ。
「東京湾で原子力潜水艦が事故を起こしたとの情報を米国の政府関係者から聞いております。軍事機密に属することなので、詳しいことはわたくしどもも把握しておりません」と官房長官は言った。
「現在推測されていることは、横須賀に向かっていた原子力潜水艦の原子炉がメルトダウンを起こし、それが原因で潜水艦が爆発し、周りの海水を瞬間的に水蒸気にして、爆発雲が発生したということです」
「やっぱり核爆発だったんだ」と里美がつぶやいた。「原潜が原因だったのか……」
「どうする、里美? 家に帰る?」と私が言ったら、里美の表情が激変した。怒っている。
「今外に出て被曝したら、りおん先生責任取ってくれるんですか?」
 ふだん温厚な里美が大声を出したので、私はびっくりした。
「いや、責任なんて取れないけど」
「だったら無責任なこと言わないでください!」
「ごめん……」
 空が曇ってきた。広島では原子爆弾が爆発した後、放射能を含んだ黒い雨が降ったはずだ。そんなことを読んだ記憶がある。
 私と里美は再びテレビ画面を見た。
「どうして原子力潜水艦が横須賀沖を航行していたんですか?」
「事故内容をもう少し詳しく教えてください!」
 記者が質問をするが、官房長官も「軍事機密で、政府でも把握しておりません」と答えるばかりだ。
「首都圏の住民は避難すべきなのですか?」
 そうだ。それが一番知りたい。
「今はまだ情報を収集している最中です。首都圏に住んでいる方、働いている方などは直ちに屋内に退避してください。窓を開けないでください。避難の準備をしておいてください」
「それは首都圏が放射能で汚染されるということでしょうか?」
「まだ詳しくはわかっておりません。首都圏にいる皆様、直ちに屋内に避難してください」
 しばらくの間、官房長官は「屋内に避難してください」とくり返すばかりだった。
「ほら、りおん先生、外には出られないじゃないですか」
「そうだね。ここにいていいよ」
「いいよじゃなくて、外には出られないんですよ!」
 里美が怒りっぽくなっている。
「ご、ごめん」と私は謝った。
 私たちはテレビを見ながらお昼ごはんを食べた。レンジで温めた冷凍のチャーハンと温泉卵とトマトジュース。非常事態に直面していて、味がよくわからなかった。
 テレビはあまり新しい情報を伝えてくれなかった。
 私はスマホでツイッターのタイムラインを見た。
〈原潜事故やばい〉
〈日本オワタ〉
〈屋内でじっとしていていいの? 避難しなくていいの?〉
〈横須賀横浜はアウト。てか神奈川アウト〉
〈神奈川だけじゃないだろ。千葉も東京も危険だよ。被曝する〉
〈大阪人でよかった〉
〈原子力潜水艦が東京湾航行っておかしいだろ。なんで〉
〈大阪でもだめだろ。直接被曝しなくても、首都圏壊滅したら日本経済は死亡〉
〈関東全域避難確定〉
 ネット情報もだめだ。みんな適当なことを口走ってるだけ。
 里美はチャーハンを半分以上残していた。
「ほんと、日本終わったかも……」
「食欲ないの?」
 私は味がわからなかったが、全部平らげていた。
「先生、食欲あるんですか?」
「まぁ、食べられるうちに食べておいた方がいいと思って」
「そうですね。先生さすがです……」
 里美はそう言ったが、それ以上食べようとはしなかった。
 電話がかかってきた。宮城県石巻市に住んでいる母からだった。
「凛音、無事かい?」
「だいじょうぶよ。マンションの中にいて、一歩も外に出ていないから」
 ベランダには出たが、言わなくていいだろう。
「気をつけなよ。命を守るのよ」
「お母さん心配しすぎ。死なないよ」
 電話の向こうで母は繰り言を言い、電話を切るのに苦労した。
 里美も家族と連絡を取り合っていた。
 午後一時頃、雨が降ってきた。雨の色は黒くはなかったが、この水滴にも放射性物質は含まれているのだろうか。広島では大量の粉塵が大気中に舞ったはずだ。今回の爆発は海だったから、黒い雨じゃないのかも。透明な水滴だからって、安全とは限らない。
 またタイムラインを見た。
〈雨〉
〈この雨危険〉
〈ガイガーカウンターに反応。この雨を浴びるな。被曝するぞ〉
〈こちら埼玉県戸田市。ここの雨も被曝ヤバいレベル〉
「戸田がヤバいって、蕨もだめだ!」
 里美が悲鳴のように叫んだ。江東区はもっとヤバいな、と私は思った。雨が降っているうちは動けない。
 テレビではアナウンサーと原子力専門家が話している。雨を避けて、ということをくり返し言っている。
 チャンネルを変えると、美人で有名なアナウンサーと軍事専門家が話していた。
「東京湾で原子力潜水艦が航行するなど、あり得るのでしょうか?」
「あり得ないと考えられて来ましたが、現実に起こったことですから、あったんですね。アメリカと中国の関係が最近とみに不穏です。そのため、横須賀米軍基地に戦力を集めていたのかもしれません」
「日本政府はそれを知らなかったのでしょうか?」
「知っていたと思います。そうでなければ、東京湾を航行できませんし、横須賀に寄港もできません」
 テレビをつけっ放しにしながら、ネットニュースを読んだ。
〈政府が首都圏の住民の避難を検討中。対象は東京二十三区、神奈川県全域、千葉県全域。しかし未曽有の避難規模で実施を躊躇〉
〈東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県からは避難すべき。しかし避難所への収容は不可能〉
 午後三時頃、避難に関するネットニュースが出てきたが、テレビでは相変わらず、屋内に避難してくださいとしか言っていない。
 午後五時にいったん雨がやんだ。私は買いだめをするために、被曝覚悟で思い切ってコンビニへ行った。棚はすでにほぼ空になっていて、飲み物も保存食も買えなかった。このようすでは他の店へ行っても無駄だろう。
 その日、私と里美はずっとテレビやネットから情報収集をしていたが、雨により関東地方が被曝していること、今屋外に出たら危険であること、政府広報は同じことをくり返すだけということしか確かなことはわからなかった。
 午後十一時に私はお風呂に入った。里美にも入るよう勧めたが、彼女はテレビの前から動かなかった。
 その日が終わり、午前零時になって、私は眠ることにした。
「里美も寝なよ」
「はい。でももう少しテレビ見てます。先生、先に寝ててください」
 私は布団を敷いて眠った。里美の分も敷いておいた。
 翌朝午前六時頃に目が覚めた。里美はテレビの前のソファで寝落ちしていた。
 テレビはつけっ放しになっている。
「午前七時から、総理大臣による重大発表があります」とアナウンサーが告げている。
 私は里美を寝かせたまま、パジャマから外出できるような服に着替えて、コーヒーを飲み、トーストとヨーグルトを食べた。歯を磨いた。
 午前六時四十五分、私は里美を起こした。
「あ、あはようございます、りおん先生」
「おはよう。七時から首相の重大発表があるらしいわよ。あと十五分」
「えー、なんでもっと早く起こしてくれなかったんですか?」
「里美が爆睡してたから。いったい何時までテレビを見てたの?」
「三時までは記憶があるんですが……」
 七時になった。総理大臣がテレビに登場した。
「皆様に重大なる発表があります。昨日午前十一時頃、東京湾横須賀沖約五キロの地点で、米国海軍の原子力潜水艦がメルトダウン事故を起こしたと見られています。原子力潜水艦は爆発し、関東地方を中心として、広大な地域が被曝しました。直ちに健康被害のあるものではありませんが、深刻な事態ではあります」
 わかっているよ、そんなことは。いや、ちがうな。本当に健康被害はないの? 直ちにってことは、いずれは健康被害が出るってことだよね。本当は、かなり危険な地域もあるんじゃないの? 横須賀とか。江東区はだいじょうぶなの?
「横須賀沖からは現在も大量の放射性物質が海洋および大気中に発生中であります」
 首相の発言に愕然とした。こんなことは昨日は政府は言っていなかった。新情報だ。ネットではさんざん憶測されていたことだけど。
「この放射性物質拡散収束の目途は立っていません。本日午前五時に専門家会議からの提言を受け、政府としては首都圏に住む皆様に避難勧告をさせていただくこととなりました」
 避難勧告? 避難しなくちゃいけないの? どこへ?
「避難勧告の対象地域は、東京二十三区全域、神奈川県全域、千葉県全域であります。しかしながら、避難先は確保できておりません。現在、関東地方以外のすべての地方自治体に避難所の設置を依頼しているところであります。しかし、全員が避難所に入ることはとうていできません。皆様、ご親戚、ご友人宅など、個人で避難先を確保できる場合は、そこへ避難してくださるようお願いいたします。避難先が見つからない場合は、避難開始を先送りしていただき、引き続き屋内退避を続けてください。避難所が確保できしだい、避難の案内をいたします。現在、政府と各地方自治体は避難計画を早急に立案しているところであります。安全に避難ができるよう皆様のご理解ご協力をお願いいたします」
 なんだそりゃ? もう関東はだめってこと?
 母から電話がかかってきた。
「凛音、石巻に帰ってきな。避難しな。うちに帰ってくるのよ!」
「わかった。ありがとう。頼らせ……」
 そこでプツッと電話が切れた。電話回線は今大変なことになっているのだろう。
「私は宮城県の実家に避難するわ。里美はどうする?」
「蕨に帰るしかありませんけど。どうせ埼玉県もだめですよね……」
 里美は気落ちしていた。私は実家の広さを考えていた。
「里美の家族までは無理だけど、あなたひとりだけなら、私の実家に避難させてあげるけど」
 私のアシスタントは顔を上げ、うるうると瞳を潤ませて、「先生、お願いします!」と言った。
 私と里美は大急ぎで出発の準備を済ませ、マンションを出て、地下鉄門前仲町駅に向かった。
 さいわい、雨は降っていない。
 駅前は大混雑で、当分地下鉄には乗れそうになかった。人々全員がマスクをしている。新型コロナに感染しないか心配だが、今はそれどころではない。
 私と里美は今屋外にいて、確実に被曝している。早く電車に乗りたい、と焦るが、人ごみは大きくなるばかりで、いつ乗れるのか見当もつかなかった。

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