生存書簡 十六通目

2020年4月10日

松原礼時さんへ

 これで書簡が最後かと思うと、何か寂しいような気がしてなかなか筆が進まず今の今まで引き伸ばしてしてしまったわけなのですが、ようやく気合を入れて筆を取ろうと書き始めました。書簡でやり取りするこの四ヶ月はあっという間だったのですが、この四ヶ月の間に単なる知識量だけでなく、僕の文学観や、二通目で書いたソレルス観にも変化がありました。同時にこの四ヶ月の間に、世界はコロナウイルスの影響もあり、激変しましたね。この書簡は、単に言表内容だけではなく、僕らが生き、経験した四ヶ月間を内包しています。そして、これこそが、書簡の最大の意味であるようにも思えるのです。僕が敢えて文科省国立登山研修中止など文学とは無関係な個人的な事情をありのままに述べたかといえば、この書簡においてありのままに身近な出来事に触れることそれ自体に意味があると思ったからです。というわけで、僕は必然的に時事的な話題に触れなければなりません。
 コロナウイルスの影響はやはり絶大ですね。それは人間の生命だけの問題ではなく、政府への信頼や国民の政治的な無関心が顕著に現れたということでもあります。特にTwitter上では自己責任論や新自由主義的な言論、ヘイトスピーチや生活保護者批判もあれば、政府への抗議や批判などカオスで満ちています。このような言論はコロナによって現れたのではなく、コロナ騒動によって可視化されたというのが事実でしょう。日本には不可視的な階級のレイヤーがあり、階級錯誤や無意識的差別が残っているということでしょう。このような自己責任論者の主張や見事なほどの階級倒錯発言をTwitter上で追いかけているのも中々興味深いことですが、結局Twitter上での言論には実質的な学びはありません。なので僕はイチから政治などについてしっかり勉強しなおそうと思い、文献にあたることにしました。毛沢東の語録集やレーニンの『帝国主義』、マルクスや政治系の入門新書などを読んでいます。他にも森元斎『アナキズム入門』を読みました。とてもいい本です。政府の今の現状(無能さ)について重要な示唆を与えてくれます。アナキズムとは国家という権力、搾取の構造がなくても相互扶助によって、我々は助け合いの共同体を作り出せるという思想です。マルクスたちと相入れないのは、彼らが国家運営を前提とし、結局は権力装置に固執しているからです。実際、ロシアや中国は、アナキストの危惧通りの歴史を辿りましたね。とはいえ、Twitterでの言論を見ると、本当に我々には純粋な相互扶助が可能なのかという気にもなっています。確かに「未開の」共同体では可能かもしれませんが、一度階級ができてしまった今、すべての人間がその既得権益を捨てるということは不可能だと思います。こういう階級問題に関しては、去年学校の授業で公共哲学を学んでいた際に重要視されていたイタリアの哲学者グラムシの本などを当たってみようかと思っています。幸い、『グラムシ政治論文選集』は前に安く手に入れて、積ん読本と化していたので。彼のヘゲモニー論は今でもアクチュアルだと思います。というか、今こそアクチュアルであると思いますね。教授が「学問はいつ実用性をもつかはわからないが、その実用性が発揮されるためにもその炎を絶やさないことは重要」と言っていましたが、まさにその通りだと思います。イギリスではベーシックインカム的な制度の導入が検討されていたり、これまで半分夢物語だったようなところで学問が生きています。いついかなるときに、混乱がおきても大丈夫なように日頃から武器を蓄えておくのは重要ですね。というわけで今はとりあえず斎藤純一の『不平等を考えるー政治理論入門』を読んでいます。これもかなり面白く、参考になります。
  他にコロナで気になるのは、ウイルスの蔓延がグローバル化によっておこされたことである、ということで、反動主義・新反動主義の台頭の中、ウイルス終了後に排他的な政策が取られないかという不安です。ただでさえ、自国ファースト気味の現代の各国が、ウイルスの後余計に排他的になったり、反動主義のさらなる支持獲得の風向きが吹いたら厄介です。ベーシックインカムなどの手厚い補償も、ナショナリズムを情動する結果になってしまう可能性もあります。今は各国、自分の国で精一杯でしょうが、混乱の後、国際規模の共同体の再創造が必要となっていくでしょう。

 というわけで、コロナはこの辺にして、松原さんはフロイトとドゥルーズの『アンチオイディプス』について書いていましたね。僕もまだ『アンチオイディプス』は読み途中なのですが、『記号と事件 1972-1990年の対話』のアンチオイディプスの箇所はかなりわかりやすいのでオススメです。フロイトの『夢判断』はこの前ようやく上下巻読み終えました。まあ面白いですね。多少、フロイトの嫌な奴感とかは拭えないですが…。とはいえ、やはりフロイトがいなければ『アンチオイディプス』のみならず他の現代思想も生まれなかったんじゃないかと思うほどには画期的です。夢、無意識、主体に対する記号的なアプローチは、思想のみならず、文学にもかなり影響を与えたのが肌で感じられますね。とはいえ、ここで精神分析学の話をする気力は僕にはないので、また別のところで書きたいと思います。なので代わりに最近僕が一番衝撃的だった本の話をしたいと思います。それはバフチンの『小説の言葉』です。この本で展開されている理論は簡単にいえば小説とは、パロディーや引用などを通して社会的な事象や他作品との対話を行うものであり、さらに小説の中では様々な階級、様々な地方、様々な職業の言語が内包されており、対話化されているという話です。これは小説を一つの独立した体系と見なす構造主義やロシア・フォルマリズムへのカウンターパンチでもあります。そしてバフチンの中で重要なのは言葉というものが自己と他者の間に漂うものであり、自己と他者が浸透する媒介のような役割をしているということです。だからこそ、バフチンにとって小説とは独立した体系ではなく人間の生に立脚した開かれた体系なのです。バフチンが中性的で人工的な「言語」ではなく、別個生きられた、生々しいものとしての「言葉」にこだわったのはこの思想からきます。このような理論は構造主義的な文学観に浸りきっていた僕にはかなり衝撃的でした。考えてみれば、いろいろな小説がこの観点から読めるのに気づいたのです。たとえば、夢野久作の『ドグラ・マグラ』は中に織り込まれた無数のテクストが相互に対話しているし、フロイトのパロディーとしても読めます。他にも今読んでいる『失われた時を求めて』も外部とも内部とも対話しながら無限に変化していく小説です。このような観点での読解で特に興味深かったのは、みずからラブレー(バフチンはラブレーをパロディー論として論じていますよね)、バルザック、セリーヌ、プルーストの後継者であると称するソレルスが書いた『秘密』という本です。『秘密』に限らず中期?のソレルスの本の特徴なのですが、とにかくあらゆることが語られています。『秘密』では人工授精やLGBT、キリスト教、近現代史、ルソー、さらにはファミコンまで語られています。このように、現代作家でも忌避しかねない事柄を積極的に反時代的な筆致で書くのが中期ソレルスの特徴であると思います。さらに、人工授精をキリスト教のパロディー的に捉えたり、精子提供に実際に言ってみた記者の記事を、アメリカ大陸を発見するコロンブスのアナロジーとして捉えたりするところに面白みがありますし、バフチンの思想ともリンクするところです。そもそも妻のクリステヴァが、ヨーロッパにバフチンを伝えた人間であるのだから、それも当たり前と言えるかもしれません。とにかく、中期ソレルスにおいては神話的な事象や文学的な物語が現代においていかに卑俗化されて現れるのかという問題提起と、そこへのなんとも言えない感情があるように思います。近い時期の『ゆるぎなき心』や『ステュディオ』も読んだのですが、根本は似ています。それは、ベンヤミンがボードレールなどを語る時に出てくるような歴史の相互浸透、弁証法的イメージのような現象に近いです。その意味で、ソレルスはボードレールの後継者であると言えると思います。さらに中期のソレルスはこのような点からも「スーパーマーケットのボードレール」と揶揄されるウエルベックとも似ているのですが、二人が仲が悪いというのは有名な話ですね。とにかく、このようなバフチン的な文学観は、現代において新しい文学を志向しているものにとっては重要な視座のように思えます。同様にベンヤミンの弁証法的イメージもですが。

 というわけで、僕の書簡はこれで終わりにしたいと思います。四ヶ月間ありがとうございました。僕としては初めにソレルスを語り、最後にソレルスを持ってこれたのは幸福です。この四ヶ月間でいかに僕のソレルス観が変化したかを明確に示せたと思います。もちろん、どちらが正しいとかではありませんが。秋の『前衛アンソロジー』などに向けて今後も様々な議論を重ねて、文学界に新しい風を吹かしたいところですね。とにかく、今はお体に気をつけて。では。

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