【2020.08.10】些細なものに風情を感じるようになることが大人になることなんだなあ
あらかじめ言っておきます。
いつも以上に散文的です。
実家に帰りました。
と言っても電車で鈍行1時間ちょろちょろの関東の中でも田舎の街。
私の実家は芸術家が愛した街、我孫子市。
人口は13万人くらいで東西に伸びた形の狭い街。
最近は散歩が趣味になってる私は、ひさびさに実家に帰ったのだし散歩でもするかと思い立ち、朝起きてから歩き出した。
ひさびさに歩く実家周辺の街並みは、普段大都市で仕事をする私にとって、喧騒も感じなければ平々凡々な景色が広がっていた。
しかし、歩み進めながら、そんな街でも少しづつ変わっている、そして変わっていく街の中で何が変わらずに佇んでいるのか、そういうことを考えさせられる時間になった。
私の街は南北を水に挟まれた小さな市、南に手賀沼、北にかつての坂東太郎こと利根川が存在する。
地域によっては地下水が通っており、断水とかに強い水の街である。
今日は手賀沼の方まで歩いてみることにした。
小学校の頃の手賀沼といえば、とてもじゃないが他人に誇る事は出来なかった。
社会の教科書に載るくらい汚い沼として有名だった。
しかし最近は綺麗になってきたみたいで、教科書に汚い沼として出てくることもなくなったみたいだ。
手賀沼には纏わる色んな話がいっぱいある。
沼の南側の地名は沼南町(しょうなんまち、現在は柏市)沼の北側は湖北(こほく)という。
手賀沼を境に北と南で表現が違う。
手賀沼なので当然今の基準で話せば沼南が正しいのだろう。
(手賀沼に向かう途中は青々と稲田が広がり静かな道が続く。)
私は、そんな沼南ではなく北側の湖北に住んでいました。
幼い時は「何故沼なのに湖なんだ?変なの。」くらいにしか考えてなかった。
タイトルにも掛かって来るのだが、今はその疑問に奥ゆかしさを感じるようになった。
きっと沼に湖と表現したにはちゃんとした理由があるのだろう、ただすべての理由を明確にすることが必ずしも正ではないと私は思うのである。
(湖北から手賀沼に向かってたどり着く景色)
かつて白樺派は手賀沼の景色をこよなく愛したというが、中でも志賀直哉と武者小路実篤は有名である。
そんな二人はJR常磐線我孫子駅から天王台駅の間くらい、手賀沼のほとりの丘の上に邸宅を構えていたという。
今も史跡として残っているが、当時二人は手賀沼を眺め何を思い耽っていたのだろうか。
そう考えるともしかしたら、我孫子が手賀沼を湖としていたことも良かったことなのではないかと考えられる。
浅学も甚だしいが、当時彼らが沼に湖を想い馳せてたのだとしたらそれはとても思想的で奥ゆかしいものだと思う。
二つの時間軸で比較した景色には変化点が必ず存在しているが、変わらないものも存在する。
彼らが愛した手賀沼は今もそのまま残っている。
野生が少しずつ取り戻されサギやハクチョウが生活を営み、シオカラトンボが喧嘩をする。
そんな場所だったんだなあと、考えることが出来るようになったのは、きっと大人になったからなんだろうな。
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