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中学生の私に伝えたい人生の話 ②

【目次】
オタクを存分に楽しめるのは若いうちだけ
・正論を言えるのは余裕があるから
人と仲良くなるために自分の優秀さを証明する必要はない
・コミュニティに溶け込むには自己開示が大切
・もっとも純度の高い愛とは見知らぬ他人への親切である
・苦手を克服するより得意を頑張ったほうがいいことづくめ

正論を言えるのは余裕があるから

かつての私は先の見えない婚活地獄の中でもがいていた。
不必要なまでに繰り返し自分の人生を見つめなおしては「そもそも私は人を愛せないのでは?」「人を愛せない私に愛される資格があるはずない」と思い詰めていた(この文章にそのころの思考の片りんが見える)。

私の友人の多くは、恋愛経験の多寡を問わず、どちらかといえば不幸な恋愛をしてきた人たちで、ほとんどが独身だ。
ザ・典型で、ザ・理想型な結婚をした友人は一人だけだ。
大学時代に出会った人と、五年近くの交際期間を経てゴールインというやつである。

婚活地獄の中にいるとき、その友人と飲みに行った。
私の将来の不安や、自分を裏切った元彼への恨みつらみを一通り聞いたのち、彼女は言った。

「そもそも自分は他人にそこまで依存したことがないので、気持ちがわからない。パートナーに精神的に支えられてはいるが、別にパートナーがいなくなったからと言って、絶望したりすることなく上手くやっていけると思う」

私は「あなたは自己肯定感が高いんだな、すごい」と感心するしかなかった。他人に依存しないという彼女の生き方は、賞賛されるべきもののように感じ、婚活が上手くいかないだの、元彼を寝取られただので、自己肯定感が地に堕ちている自分がちっぽけな人間のように思えた。

しかし、婚活を経てパートナーを得た今の私は、どうだ。
彼女とまったく同じ気持ちである。
私の精神構造も、生活スタイルも、何も変わっていない。
変わったのは、「何があろうと自分を肯定してくれる人間」がそこにいるということだけだ。

自己肯定感というのは、完全に内から湧いてくるもののように思われている(少なくとも私はそう思っていた)が、自分を肯定してくれる人間が誰もいない(ように感じられる)状況で「私ってサイコー」なんて思えるはずがない。
「私は誰からも褒められなくても、認められなくても、自己肯定感が高い」という人の話は疑ってかかる必要がある。
その人は、社会の中で生きていないか、「自分を認めてくれる誰か」の存在が当たり前になりすぎてカウントし忘れているかのどちらかだ。
そして、その人の話を聞いて「自分は他人への依存度が高い…」「まず人を愛する前に自分を愛さなければ…」などと思い詰める必要はない。
そんなのはさらに自己肯定感を低めるだけだ。

お金がある人間ほど、お金がなくたってやっていけると言う。
学がある人間ほど、学歴なんて人生に関係がないと言う。
幸せな恋愛をしている人間ほど、恋愛なんてなくても幸せに生きていけると言う。
私は正論が好きだ。正論や建前と言われるものは、人間の本質やあるべき姿を示していると思うからだ。
だけど、正論をもとに誰かを断罪することは、ポジショントークに過ぎず、たぶん、愚かなことなのだ。

つづく