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中学生の私に伝えたい人生の話 ①

私は自我が芽生えるのが遅かった。
長らく物語と空想の世界に生きていて、自分にも他人にも興味がなかった。
寓話でしか世界のルールを知らず、とにかく不器用で生きづらかったし、たくさんの過ちをおかした。

今も器用なほうではないけれど、アラサーになってようやく自分と他人に関心を向けるようになり、「あれってこういうことだったのか!」と腑に落ちることが増えてきた。
もっと早くに知っていれば楽だったのだろうけど、私は今、自分を育てなおしているところなのだと思う。

【目次】
オタクを存分に楽しめるのは若いうちだけ
正論を言えるのは余裕があるから
人と仲良くなるために自分の優秀さを証明する必要はない
・コミュニティに溶け込むには自己開示が大切
・もっとも純度の高い愛とは見知らぬ他人への親切である
・苦手を克服するより得意を頑張ったほうがいいことづくめ

オタクを存分に楽しめるのは若いうちだけ

中学生のあなたは腐女子仲間と話したでしょう。
「何歳まで腐女子でいると思う?」
「たぶん一生やめられないと思う!」
「結婚しても?」
「旦那には隠しとおす! 薄い本は子どもの手の届かないところに置くw」

そう、あのころ腐女子であることは恥ずべきことで、知られてはならないことでした。
そしてあなたは「大人の腐女子が少ないのは、バレて夫にやめさせられたから/子どもを育てるためにやめたから」だと思っていましたね。
こんな楽しいことに飽きるはずがない! と信じていました。

飽きます。

歳を取ると、
・色んなものに既視感を覚えるようになり、目新しさが感じられない
・そもそも興奮を感じさせる脳の働きが衰えてくる
・物事への執着が減る

などの理由によって、
・どの作品も似たように見えてくる
・「萌え」を感じにくくなる
・特定の作品をずっと追い続けられなくなる
のです。

この「歳を取ると」の前に隠れているのは「私たち全員」というクソデカ主語で、さすがにそれは主語が大きすぎます。
私にも、まだまだ推しを追いかけている友人はいます。
しかし、腐女子時代の友人の大半は違います。
久しぶりに会っても、話はもっぱら「なんか面白い作品ない?」「あー何かにハマりてえー」という内容に終始します。
推しを追いかけていたとしても、数年前と同じような熱意を持っていることはまれです。
連載が終わったとしてもチケットが取れなかったとしても「まぁいっかー」ぐらいのノリです。

このように書くと、「いや、私は違うし、私の周りも違う」と感じる方もいらっしゃるでしょう。
それはとても幸運なことです。

「オタク」への偏見は一時期に比べればずいぶんなくなりました。
それでもネットの吹き溜まりのようなところで見かける揶揄として残っています。
そこでの「オタク」のイメージは往年のステレオタイプと変わらず、「いい年になっても親と同居して」「結婚もせず」「自分の給料はすべて自分の趣味のために浪費して」「子どもが楽しむようなコンテンツを嬉々として楽しんでいる」というようなものです。
海外だったら親の家の地下に住んでいます。

これらのイメージに悪意があることは一目瞭然です。
そして、たとえこれらすべてが事実だからといって、何の問題もありません。何歳だろうが実家に住み続けていい、生涯独身だっていい、何を好きでも問題ないのです(ただ貯金はしたほうがいいと思う)。
わざわざ書き連ねたのは、ある共通点が存在することを指摘したかったからです。
「大人になれていない」というイメージです。

「大人になれていない」んじゃない!
オタクの人は若いんだよ!
脳が若いんだ!

言うまでもなく、この若いというのは幼いということではありません。
年齢という単なる数字のことでもありません。
あえて言うなら、機能としての若さです。

世間で言う「大人になる」というのは物事の一つの見方にすぎず、「脳が衰えてしまった」というふうにも考えられるのかもしれない。
それで助かることももちろんあるけれど、あの熱狂をもう二度と味わえないと思うと残念でしかたがないのです。

あー何かにハマりてえー。

つづく(次回からはもうちょっと真面目な話をします)