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近況報告

 あたしは一人きりでこの文章を書いている。都内に越して、約1か月が経った。新しい仕事は、緊張感があって神経を使う反面、刺激的だ。

「そういえば遠距離恋愛になっちゃったらしいけど、大丈夫?」
あたしに仕事を教えてくれているのは、5歳ほど年上の頭のいい女性で、まだ出会って数日の彼女のことを、あたしはいたく尊敬している。
「意外と平気です。何も変わらない感じ」
あたしたちは仕事の合間に、人影がまばらになった会社のカフェテリアで休息をとっていた。

「電話とか、たくさんするの?」
「いや」
あたしは小さく笑ってしまう。
「電話は、しないです」
そう言うと、彼女は大きな目をことさら見開いてみせた。
「ほんとに?」
話好きの彼女は、電話も大好きでとにかく恋人と話がしたいのだと言った。しかし話すだけでは物足らない、遠距離恋愛はできない、とも。

「そうですねぇ」
あたしは言いよどむ。たしかにあたしも、そう思っていた。愛する人がすぐそばにいる温もりを知ってしまったら最後、一人きりで生きていくなんて到底できないのだ、と。

 しかし、現実にあたしは、恋人不在の小さなワンルームでつつがなく生活をしている。やや単調ではあるが、過不足のないごく普通の日常だ。孤独を感じることは、意外なほど、ない。

 そもそもこの部屋は、あまりにあたしの気配で満たされすぎている。散らばった紅茶の箱も、読みかけの本も、アンティークのテディベアも。まるであたしの縄張りみたいだ。
 もちろん恋人の物もある。しかし、彼のうす青色のシャツや、髭剃りや、革靴は、ひっそりと戸棚に収まっていて、あたしの縄張りを少しも荒らさない。

 すこし慣れすぎたかな、とあたしは思う。恋人の存在に、恋人の愛情に。あたしたちの関係性は、あまりに自然だ。あまりに自明で、もはや疑うことすら億劫だ。
 堕落。唐突にその言葉が思い浮かび、あたしは天井を仰ぐ。あたしたちの恋愛は、甘やかにゆるやかに落ちぶれていく。

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