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【創作小説】つぼみのままの白百合07

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 マサコの家を目の前にしても、麻里亜の記憶は霞がかったようにはっきりとしない。
 本当にここへ一度訪れたことがあるのだろうか。もしも一度でも訪れたことがあるのならば、鮮烈な印象を残しそうなものなのに、と麻里亜は訝った。

 それほどまでにマサコとしずか――麻里亜の大叔母一家――が暮らす家は、豪奢なつくりをしていた。表札には、マサコの結婚時の姓である江村の名前がかかっていた。
 灰鼠色の石畳は、重厚な鉄の門の先にまで続いていた。濃い緑が覆い重なるようにしてその先を隠している。
 インターフォンは見当たらなかった。麻里亜がそっと門を手で押すと、あっさりと動いた。他人の家に無許可で立ち入る罪悪感を「親戚の家だから」という理由で何とか打ち消した。
 江村家の敷地は、ひっそりと静かだった。

「ごめんください」
麻里亜は扉のむこうに声をかけた。しかし反応はない。今日は、マサコの養子である静が在宅していると聞いている。麻里亜は鍵を預かっていないので、こうして呼びかけるほかなかった。
「ごめんください。今日からお世話になる佐藤です」
静の姿も見えない。そもそも、姿が見えてもすぐにお互いのことが分かるのだろうか。
「佐藤麻里亜といいます。……静さんいらっしゃいませんか」
ふいにすりガラスのむこうで影が動いた気がした。
「ごめんください」
なおも呼びかけると、たしかに扉のむこうから人の足音がした。麻里亜はこわばった指先をこすり合わせた。20年も前に一度会ったきりの親戚が現れる。

「はい」
ガタンと音をたてて、扉が開いた。そこに立っていたのは麻里亜よりも少し年上のまだ若い男性だった。麻里亜は面食らった。
「あの、突然すみません。佐藤麻里亜といいます。今日からこちらでお世話になるのですが……」
男は何も言わず、目を細めて麻里亜の姿を見ている。細身にまとった白いシャツが冬の日差しをうけて反射する。
「静さんは、今日ご在宅でしょうか」
この男が何者なのか麻里亜には不明だが、彼に静の所在を尋ねるしか方法がない。静には今日の話がすべて伝わっているはずだった。
「……麻里亜ちゃん?」
ややあって、男は言った。存外低い声だった。
「は、」
「麻里亜ちゃん、だね」
なおも男は繰り返す。そして、状況を飲み込めない麻里亜にむかって微笑んだ。
「来てくれてありがとう、僕が静だよ」

 自分の名前はすでに故人である実母――マサコの妹でやはり麻里亜の大叔母にあたる――がつけたのだと、静は説明した。
 静に促されて、麻里亜は一階の客間で熱い紅茶を飲みながらこれまでの経緯を聞くことになった。「そうした方がいいだろう、きっと義母は多くを説明していないだろうから」と静自身が言ったためだ。

「あの人は悪気はないけど、そういうところが大雑把だから」と静は苦笑した。麻里亜はまだ心臓が落ち着かなかった。ずっと静のことを女性だと思い込んできた。出会ったときの記憶はないから仕方もないが、自分の単純さにあきれていた。

「僕の生みの母親は、知っていると思うけど40そこそこで他界しているんだ。名前は美代。吉岡美代という。肇おじいさんの末の妹だよ。ややこしいんだけど、父親はいない。いないというか冷淡な男でね。母が僕を身ごもった頃、彼は既婚者で僕のことを認知すらしなかった。もともと精神的に不安定だったらしい母は、父の仕打ちがよほど堪えたんだろうね、僕が11歳のころに亡くなったよ」
「そう……だったんですね」
暗に母の死因をほのめかしても、口調は淡々としていた。

「この家は江村さんが建て直したんだ。吉岡家の古い家をリフォームしてね。立派なもんだろう」
江村とはおそらくマサコの元夫のことだろう、と麻里亜は察した。
「ええ、随分立派ですよね」
「それもそうでね。江村さんは建築家なんだ」
静は一冊の雑誌を開いて麻里亜に差し出した。それは1990年代の建築ジャーナルで、江村久嗣ひさしという名前が大きく記された横に、濃紺のセーターを身に着けた男の端正な横顔が映されていた。
「これが義父だよ。最近亡くなったと聞いたけど……」
静の口調がわずかに沈んだ。
「お悔やみ申し上げます。」
「仕方ない。癌だったんだ。とんでもないヘビースモーカーだったから」
静は肩をすくめた。そんな仕草をすると、青年のような雰囲気を漂わせる。しかし麻里亜よりも5つほど年上であるから、すでに30を過ぎているはずだった。

「静さんは、今は何をなさっているんですか」
「それも聞いていないの?」
驚いたような顔をする。
「小説を書いてるんだ、一応作家ということになるかな」
「すごい」
麻里亜が言うと、静は曖昧な表情で首を振った。そうでもない、という謙遜のジェスチャーなのかもしれなかった。
「ジャンルを言っても、まだすごいだなんて言ってくれるかな」
そう言うと、いたずらっぽい目をして麻里亜の顔を覗き込んだ。

 年の近い親戚という親しさで、麻里亜は最初の緊張をほとんど忘れていた。紅茶はまだいい香りがしていた。温かく甘い飲み物は、麻里亜の心を溶かすにはちょうどよかった。
「なんだろう、恋愛ものとかかな、意外と」
自然と口調もくだけてくる。静は涼しい顔をして平然と首を振った。
「惜しいけど違うね。官能小説だよ」

(つづく)

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