高二の修学旅行の終わりにやった活動について、ただ書き留めるだけ
私がカンボジアに来て、最初にとても気を引かれたところが、交通面だ。それは日本と大きく違った。
❸さんの話を聞くと、日本に比べて自由な国だなと感じ、羨ましくなった。
しかし、日本人の人柄や私の抱く日本のイメージなどがあってか、カンボジアの様な自由らしさは日本には訪れないだろうと感じた。
しかも、Mさんの話でも「日本に比べてカンボジアは何もかもダメダメだ」と言っていたので、ひょっとすると、日本がカンボジアのような自由らしさを手に入れるのは、退化なのではないかと思った。
でも、私が今思い出して書いている「カンボジアの自由」の正体は、きっとおそらく交通面の話ばかりにしか焦点が当たっていないので、自分の夢ばかりに気を取られてまともに考えられていない、単純な私個人の欲望なんだと思う。
私が特に交通面での自由を感じ羨ましいと思った所は、バイクのあれこれにある。
まず、バイクに乗れるだけの人数で運転出来ることだ。
あとは見ていて感じたのだが、車やバイクが日本に比べて車線をあまり意識していないように見えたし、信号も歩行者用しかまともに見ていない気がする。(もしかしたら私がちゃんと見ていなかったからかもしれないが。)
それと、どこを向いても必ず置いてあるバイクが、カンボジアがいかにバイク社会であるかを表していると思った。
だが、自由だからこそのデメリットがあると私もわかっている。
ここで私は、自由とは諸刃の剣であるという説に気付いた。個人的にこれがカンボジアの学びなのかと思ったりもした。
私は自由を常に欲していて、自由が無ければ死という最後の自由にしがみつく程なので、これはとても大きい収穫ともいって良いと思う。
❸さん曰く、カンボジアは人を撥ねても、約35万程(確か)払えばそれで完全解決・終わりだという。
カンボジアの様な自由とは、個人でいる分には快楽を得ているが、その後には他人の快楽のために否応なしに自分の身を危険に晒しリスクを負う事になるのだろうと思った。もちろん自分が快楽を得ている時には他人は危険にさらされている。
人間はどうしても集団の生き物であるから、自分と他人どちらかが欠けていては自由は維持できないし、そもそも生まれない。
しかも、自由というのは、その人が自由をどれくらい好み、動くかによって代償が変わるものだ。
自由が嫌いな人はどうしたらいいか分からないとか心配とか言う理由によって、じっとしていたりするのではと私は考えた。そうと仮定すると、じっとしている分何も起こらないので、事故に遭うなどの様々なリスクは、動く人に比べて少ないと言っていいだろう。(もちろんじっとしているのも行動なのでじっとしている事のデメリットもあるが...)
それに対して、自由が大好きな人は解放された喜びや何でもできるとわかって様々なことに挑戦し出すだろう。その結果当然様々な行動を取るので、危険・リスクが生まれるだろう。
ここで行動する人としない人との違いは、リスクが常に安定か不安定かであると思う。
しない人は基本的に落ち着いているので、行動によるリスカの変化が比較的穏やかだろう。
する人は色んなことに挑戦するので、やる事柄によってリスク変化が激しい。
しかし、どんな行動をとるかは人によるので、行動する人がとった行動がしない人と同程度の危険度であることも例外としてあるだろう。
書くことが無くなってきたかもだから、終わり.....?
当時のメモをコピペしただけですし、今とは違うかもしれない&未熟なところや論破のためのウィークポイントがあるかもしれないが、そこをつこうとするのは愚かでしかない。何故なら、本文を書いたのが高二だから。
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