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おでんくん

なんでも知ってるつもりでも
ほんとうは知らないことがたくさんあるんだよ

小さい頃よく聞いたアニメ「おでんくん」のフレーズが、最近よく脳裏にひょこっと現れる。

「当たり前に知っていると思っていた」という前提で会話を進めて、よくよく振り返ると「相手はそもそもなにも知らなかったから会話が成り立っていなかった」となることがよくある。

最近SNSでよく見るフレーズとか、テレビドラマの俳優さんとか、オーディション番組の推しとか、そういう話が上手く噛み合わない。



小中高大とずっと、割と狭いコミュニティに属していた。みんななんとなく似たような環境で育って、おんなじくらいテレビをみて、おんなじくらいSNSで情報収集をしている人たちと自然と仲良くなっていた。

小中高の友達と会えば、「今クールのドラマのあの人」の話題であーだこーだ盛り上がれた。

大学時代の友達はみんなラジオやテレビやエンタメへの関心が高かったから、「この前の〇〇見た?」とか「〇〇のライブ興味ない?」とかそういう会話が当たり前に飛び交う環境だった。

だから、なんとなく「私の知っていることは相手もあたり前に知っている」という感覚があった。もちろん全てを知っているわけではないけれど、「相手が知っていること」と「私が知っていること」はそんなに大きく乖離していなかった。

ただ、大人になって、ちょっとコミュニティの外に出て、より幅広い世代や考え方の人と会話する機会が増えると、お互いが「知っていること」のギャップを感じることが増えた。「最近なにが流行っている?」という話題があがっても、みんなで共通の答えを出すことができない。



朝井リョウ著の「スター」という小説を読んだ。誰もが表現者となり、人から人へ表現を伝える手段が増えた今の時代を、複雑ながらも正直に描いた作品だった。

この世界には、たくさんの表現が溢れている。映画もあればYouTube動画もあるし、テレビ番組も配信番組だってある。そうやっていろんなモノが世の中に放たれている今、どの表現に対してどう向き合ってどう受け止めるかは人それぞれ。



小中学生の頃はみんな当たり前に同じテレビ番組を見て、当たり前に同じ雑誌を買って、同じ表現を浴びて育った。共通言語としてコンテンツがあった。

それが、どんどん細分化されているように感じる。だから共通言語として語れるコンテンツが減っているし、それぞれが「知っている」ことは細かくちょっとずつズレている。

「私が知っていること」は相手は知らないかもしれない。逆に、「相手が知っていること」は私が知らないことかもしれない。

そのズレを「なんで知らないの!」と否定するのも、「これを知ってよ!」と強く押し付けるのも、複雑になった今はもうナンセンスなんだとも思う。

知らないことは悪ではないし、知っていることが善でもない。



なんでも知ってるつもりでも
ほんとうは知らないことがたくさんあるんだよ

脳裏にいるこの「おでんくん」が、今の細分化された世の中には必要なんだと思う。

自分が「知っていること」には、これからもとことん向き合えばいい。好きになったり、嫌いになったり、沢山向き合って沢山愛を募らせればいい。

逆に「知らないこと」に出会った時には、それをちょっと受け入れてみる。知ろうとしてみる。そうすることで、私の世界はまたちょこっと広がるし、相手とのズレにも歩み寄ることができる。



世界の不思議やいろんな奇跡
もしかしたらそれはみんな
おでんたちの仕業かもしれないのです

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