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私を導いてくれた4人の友達

幼稚園の頃、同じ通園バスのお友達に、A君とYちゃんがいた。

2人とも、障害のある子だった。

もちろん当時の私は「障害」という言葉は知らないのだけども、おしゃべりをしないところとか、お友達と遊ばないところとか、なんとなーく、みんなと違う子なんだなぁと思っていた。


4歳の子どもに、
「みんなと違う」=変、おかしい、悪い
という考えはない。

みんなと違う。ただそれだけ。だからどうって話ではないのだ。



でも、4歳の私が分からなかったことが2つある。


A君は、みんなで並んで帰りのバスを待っていると、大好きなブランコに向かって、バーっと走っていってしまう。
私たちはそれを追いかけて、満面の笑みでブランコに乗るA君に
座るんだよ!
と声を掛ける。


A君は、どうしてみんなで座って待ちましょう、の時間にブランコに行くんだろう?


満面の笑みでブランコに乗るA君を見ていると、A君は悪いことをしようと思ってしてるんじゃない気がした。

先生が悪いわけでもないし
A君のお母さんが悪いわけでもないと思う。


どうしてA君はブランコに行くんだろう。


もう一つは、どうして大人はA君やYちゃんのことを「かわいそう」って言ったり「真似しちゃいけません」って言うんだろう、ということ。


ある時、高い声で「あー」とか、低い声でお父さんが返事をするみたいに「あぁ」とか声を出して「あ」の発声のバリエーションを確かめていたら、

「Yちゃんの真似?」と聞かれた。
そういえば、Yちゃんもいろんな種類の「あ」を言ってたっけ、と思って、何の気なしに
「うん」
と答えると、

「Yちゃんはお話しできなくてかわいそうなんだよ。だから真似しちゃいけません」

と言われた。


別にYちゃんの真似じゃなかったんだけど、
「ほんとはおとうさんのまねだよ」
というのもなんだか違う気がして

「わかった」

と答えた。

なんで真似しちゃいけなかったんだろう。


(30年近く前の話です。今はそんな風に言う大人は少ないと信じて。)



小学校に入り、4年生になるときに引っ越しをした。

4年生は1組から4組まであって、あと、お花の名前のついたクラスがあった。

そこにいた4年生は、ダウン症のMちゃんとNちゃん。

「ダウン症」という名前を9歳の私はなぜか既に知っていて、初めてダウン症の同級生に会ったんだけれど、一目見たときから


「一緒に勉強したい!」と強く思った。

お花の名前のついたクラスは4年生のクラスからちょっと離れていたし、一緒に給食を食べたり音楽の授業をしたりする「交流級」の一員にはクラス替えをしてもなることはなかったんだけど、


たまたま近くに座った修学旅行の電車のボックス席や、走順が一緒になった運動会の徒競走はめちゃくちゃ嬉しくて楽しかった。
もっともっと側で二人と過ごしていたかった。

中学生になるときに、二人は違う学校に行ってしまった。


4年生の私にも、分からなかったことが二つある。


どうして「障害」にはなんか触れちゃいけない空気というか「タブー」みたいなのを感じるんだろう。

「MちゃんとNちゃんって、ダウン症なんでしょ?」とは、Mちゃん達がいなくても、なんとなく周りの大人に聞いちゃいけない気がした。


もう一つは
どうして障害のある子と一緒にいると
「偉いね」
って言われるんだろう。

私は一緒に座れてめちゃくちゃ嬉しくて楽しかったのに。



4歳の自分の疑問も、4年生の自分の疑問も、これからの自分の人生を決めるコンパスのひとつになった。


もっともっと知りたくて、大学で特別支援教育を学んだ。

大学を卒業して、障害のある子と関わる仕事に就いたけど、もっともっと知りたい思いは変わらない。むしろもっと大きくなった。


今の私は、4歳の私と4年生の私に、どんな説明をするだろう。

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