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ハートにヒビが入るほど綺麗な海を探しに行く物語-1 -

 「自分の行きたいところに行くのに誰か一緒に行く連れがいなかったら、
  いつまでも自分の行きたい場所や夢を諦めるの?
  私は一人でも私の行きたい場所に行く」

今でこそ一人で行きにくい場所に行くにも強気でそう発言して、おひとり様でどこに行くにももう怖いものはない女になったが、
かつてあたしは知らない場所に一人で行くことができない弱い人間だった。
これは、そんな誰かと一緒でなければ行動できなかった女の子が、初めて一人で旅に出始める物語。 

2000年代も一桁の時代が終わりそうになる頃、私は大学の国際関係を勉強する学部の学生だった。
入学してから私はいつも不満そうに燻っていた。私のいるべき場所はここではない。もっと適した場所があるに違いない。かといってそれに変化を起こせるような具体的な行動の変容も起こせないような意志の弱い学生だった。
普段いつも何か吐き出せない不満を抱えていた私は、ある日ある広告を見つけた。タンザニアの大学との交換留学制度。まだ当時交換留学制度は始まったばかりで2人しか渡航の先例がないところだった。
兼ねてからアフリカやRPGのような冒険に憧れていた私はすぐにその話に飛びついた。
おそらく学内の希望したのは私だけだったのだろう。
アメリカやイギリス留学を希望する学生が留学枠を勝ち取る競争で苦労する中、私は競走もなくあっさり通過することができた。

現地公用語であるスワヒリ語を事前に勉強はしていったが、放課後に受ける初級のレッスンとは桁違いの道の語彙が街に溢れていて、予想よりスワヒリ語での生活は困難を極めた。食堂で簡単なご飯を注文するのにも意味がわからずとりあえず、みたことがない文字列があったら注文してそれが何かを確かめてご飯を食べる日々で苦労した。

タンザニアではダルエスサラーム大学という、国の実質的な首都である経済の中心地に位置する国立トップの大学に留学した。ダルエスサラーム大学には二人の日本人留学生がいた。
二人の留学生は1年ほど私より先に来ていたため、タンザニア内で活動するJICAや会社で働く日本人の人脈をもっていたり、買い物の地理関係に長けており簡単な日常生活のスワヒリ語もなんなくこなしていた。
いつも友達がどこかに行く時にその計画に載ってついていくばかりで、友達がどこにも行かなければ自分は部屋の中かせいぜいよく知っているショッピングモールに行くばかりだった。

その友人へのくっつき虫ぶりはある事件をきっかけにますます加速した。
まず、到着して2週間もたたないうちに、学内で強盗に襲われた。
日本人の留学生と韓国人の学友と学生寮から500mほど離れた「インターネットの繋がりやすい木」までいってメールをチェックするのが日課であった。
その日もパソコンを持ってメールをチェックし、韓国人の兵役上がりの学生と「俺は軍隊上がりだから強いんだ。何かあっても任せろ!」と談笑しながらの帰りだった。
突然夜道の藪の中から大鉈を持った男に襲われ、「Give me money!!」と襲われた。到着して早々に洗礼を浴びたような気がした。
軍隊上がりの男たちは刃物の前では手が出ず、韓国人女子がパソコンを奪われ、その間に殴打して逃げ去っていった。
生まれて初めて会った「命の危険」に衝撃を受けた。
それ以来現地の人に対して人間不信になったが、まだ留学して2週間で気持ちが挫けても引き返すことはできない。しかし、学生寮と学内の食堂を散策するしかできない程度に気持ちを挫くには十分すぎる事件だった。

一度それじゃあこんな広い国なのに一部しか見て回れなくて残念だと奮起して、街中を歩いてローカルな人を交流することに試みた。
この場では割愛するが、その時、街中で知り合って友人になり、家に遊びに行って近所や親戚の人を紹介してもらう程度まで親しくなり心の底から現地の親友ができたと思った人が最終的に強盗に変わるという残念な結果になった。
トラウマができてからからは、なおさら一人歩きは恐怖になりできる限り避けた。

それ以来、日本人の友人に依存しているといえるほど頼ってしまった。
しかしその友人もほとんど留学の期限を迎えて帰ってしまい、このままだと残されたあたしは新しいところに行くこともなく大学の中だけで短い留学を終える。
それはあまりにも残念だった。
一度トラウマを打破するために知らないところに一人で安全に行くことに成功しなければならないと感じた。

それでまず手始めにダルエスサラームから40分ほど離れたボンゴヨ島という無人島に行くことに決めた。 
そこへ行くまでの道は全く知らずローカルの人に道を聞きながらの道のりだった。稚拙なスワヒリ語と英語を駆使してバスの料金を徴収しているコンダー(バスの車掌のような人。おそらくバスのコンダクターが現地語に訛った)にバスを乗り継いで船着き場まで行った。
バスのコンダーはとても親切で降りる場所に着いたら肩を叩いて教えてくれ乗り継ぎ場への道も教えてくれた。

その道のりは知らない風景でこの道であっているかどうかわからないまま道を進んだり、タンザニアで差別されている中国人と見分けがつかない見た目のために罵声を浴びせられたり、込みあうバスの中でスリに遭わないようにバックを抱きしめたりで不安でいっぱいだった。

その道程で幼いころのことを思い出していた。

 幼い頃、自転車でお母さんやお父さんに連れて行ってもらった場所のその先にある知らない場所に一人で行くのは、あの頃のあたしにとって冒険だった。
とてもスリリングで何があるんだろうという期待と戻ってこれるかどうかわからない不安で一杯だった。

冒険は繰り返され、未知のマップが明らかにされていき、自分の認識する世界は広がっていった。
自分の知っている道と知らない道がつながり、地理を理解するとき何かヘレンケラーが「WARTER」という言語と実際の「水」を頭の中でつなぎ合わせた様な感動がある。
その反面、道に迷うことも多々あり、携帯なんかない時代だったので自分だけど力で家までの道を見つけ出さなければならず、その時は必死で走って知っている道までたどり着こうとした。

正午の刺すような真っ白い太陽の光が穏やかな黄色に変わっていくのも気にせず、われを忘れて冒険をしていた。
傾いてゆくオレンジ色の太陽、伸びていく周りの風景の影、じわじわと広がる暗さ。
それらに気づき戻ろうとするが、夕方の闇は今まで来た道を違う風景のように見せ、あたしは道を失った。
誰にも見つけられることなくこの闇の中でずっと過ごさなければいけないんじゃないかという恐怖に突き動かされ、道を探す歩調はだんだん早くなり、走り始め、息が切れるほど全力で知っている道を追い求める。
見慣れた風景にたどり着いたとき、一気に転がるように家の前まで着く、安堵感から立ち止まり汗を拭うと自分が泣いていることに気づいてみっともないから洗面台まで直行して洗い流して家族の前に出たものだった。

冒険を繰り返すうちに道は広がっていきあらかた知らない場所を理解し、大人になるころにはもう不安は消え迷うこともなくなった。
が、そのときにはもうあのわくわくするような冒険の楽しみもなくなっていた。
日本には未知のものがなく退屈で退屈でしかたがなかった。

しかし、ここタンザニアでまたあの幼い時のような不安と期待に満ちた自分の中のマップの暗黒部分が明らかにされていく作業が十数年ぶりにできることに、自分が試されているような緊張感と楽しさを感じていた。

ボンゴヨ島はダルエスサラームから40分の無人島である。
無人島といえど、全く手が入っていないわけではなく、観光客向けに食事処やビーチの日除けになるバンダが設置してあるだけだが、居住している人はいない。
「何もしない贅沢」が楽しめるダルエスサラーム屈指の美しい観光スポットだと聞いて行った。
ボンゴヨ島の船着き場はスリップウェイという瀟洒なショッピングセンターに併設されていた。
おそらくタンザニアでも有数の整ったショッピングセンターだが、客はアラブ系特有の鼻が高くの彫りが深い顔だちの人、よく日に焼けた恰幅のいいインド系の人や中国人や白人などの外国人でいっぱいだった。
ボンゴヨ島の船着き場にも、少ない数の白人と、中国人と、ホワイトカラーの職業についている黒人のみがただ船を待っていた。

こうして自分の行きたいところへ、自分の力で行く一人での旅は始まった。

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