寂しさの話
「小泉さんって、案外寂しがり屋ですよね」
それはある日の車のなかで、同世代の男の子に言われた言葉だった。
両親と、祖母、そして弟(と猫1匹)の家族構成で暮らしてきたわたしは、俗に言う「長女として」という意識がわりと強い方なのだと思う。頼み事はなんとなく嫌と言えないし、自立心もどちらかといえばあると思う。同じように自尊心も。弱っているところを見られたくないし、自分を見失うことが嫌なので、あまり感情的になることもない。(かと言って喜怒哀楽が乏しいわけではないよ!)両親はわりとのんびりとわたしたちを育ててくれたおかげか、わたしは特に親に反発することもなく、これまでの20数年間を過ごしてきた。
のんびり、とは過ごしてきた。勉強の強制もなかった。女とはこうあるべきだという思想の押しつけもなかった。平等な愛情のおかげで、孤独じゃなかった。だけれど、わたしは「人に甘える」ということがとてもとても苦手なのだった。
「甘える」って、なんだか漠然とした言葉だし、何をどんな行動を以って「甘える」ということなのかは、人によって様々な形があると思う。例えば、久々に会った恋人に構ってもらおうと「甘える」し、子供は親に「甘える」。現にわたしがのんびりと実家暮らしをしているのも、一人暮らしをしている方々から見たら「甘えている」ように思うだろう。
まず、わたしが思う「甘える」というのは、「自分を素直に打ち出す」というニュアンスが一番に多く含まれている。そして、感情表現があまり得意ではないわたしは、恋愛を含む人間関係の面で、「素直になること」でだいたいつまづいていたのだ。
話を冒頭に戻そう。
それは高校の頃の友人たちとの軽い忘年会でわたしが酔っ払い、そのときにリアルタイムで連絡をとっていた職場の同僚に迎えにきてもらった日の夜、同世代のその子に言われた言葉だった。
酔った流れで連絡し、迎えにきてもらう時点でまあ色々と察して欲しいのですが、そのときのわたしはかなり浮かれていたと思う。そのままお利口に帰りたくなくて、勢いでドライブをせがんだ。自宅の場所を訊かれて「え〜〜〜わかんないなあ〜〜〜(無駄に上機嫌)」と、酔いのせいにすれば良いと口からでまかせ。(針千本飲め)普段は得意ではない表現の自由度も、相乗効果で高まっていた。一緒にいたい口実を作ったわりには、お酒の酔いによる高揚感と急展開すぎた流れにおそらく頭の回転が追いついていなかった。当たり前に所々記憶が曖昧なのだが、ついにわたしは彼に告白紛いのこと(紛いも何も告白は告白なんだけど)をし、その場で呆気なくもそれとなくフられた。ザッとした経緯はこういう感じで、その後だった。
「小泉さんって、案外寂しがり屋ですよね」
「あ、悟られた」と、思った。
その一言で、わたしが酔った勢いで口走った告白よりも、自分の心を丸裸にされたような気がしたのだ。
良い意味でも悪い意味でもなく、何かざらっとした感覚を覚え、わたしは咄嗟に「そんなことないよ」と返したと思う。返してなかったとしたら、おそらく心のなかで強がってそう思おうとした。今までの自分が、ひっくり返ってしまったかのような、背筋を定規で正されたかのような、嬉しくも不快でもなく、何故だか泣きそうになった。
だって今まで本当は、わたしは確かに寂しかったと知った。
寂しいのだと、甘えられなかったのだ。
多分だけど、相手の男の子は、酔っ払ってる同僚との会話をつなぐために放っただけで、その言葉に特に深い意味はなかったと思う。そして、妙にすっきりしたような、何か釈然としないような気持ちで、わたしは、いつの間にか自宅の前に停まっていた彼の車から降りた。(次の出勤日からも、深夜に酔っ払いに付き合わされた挙句、突然告白してきた同僚の女に普通に接してきてくれた彼は、本当に良い奴だと思う)
あの日以来、わたしはあの言葉を思い出しハッとさせられることが度々ある。
少なくともあの日、お酒の勢いと力を借りていたとは言え、わたしはとてもよく「素直になれていた」と思う。同時に、わたしのなかにある感情の隠れていた部分が見えた。わたしは寂しかった、その寂しさが悟られた瞬間に、わたしは「甘える」ことができていたということだ。そして、寂しいと、素直に甘えても良いのだと。
恋人や友人たちと、気軽に顔を合わせることができなくなった昨今。わたしたちの生活も変わり、多様化する対人関係やネットワークの発達のなかで、それでも変わらずに会いたいと思う人たちがいる。会えたら買い物をしよう、とか、半年後くらいには大分に温泉旅行に行こう、とか、未来的な約束を交わしながら。わたしにはもう、「寂しかった」と伝えたいと思う人たちがいる。