「付き合う」の定義は、「2人」で決めていい。
この間15万円の古民家を買ったのだけど、パートナーが「もし別れたとしても一緒に住んでようね!」と冗談混じりで言ってきた。
私は、「あ、面白い」と思った。別れても一緒に住むって、じゃあ「付き合う」も「別れる」も、そもそもの定義ってなんなんだろう。
恋愛ドラマなどでは、「最近〇〇さん仲いいよね、付き合ってるの?」「え?彼結婚する気ないの?それって付き合ってる意味あるの??」というセリフがよくある。
現在「付き合っている」パートナーと、そのことについて朝7時から語り合ってみた。
よってパートナーの答えは、
「お互いに、相手が自分の人生の主要人物と思うかどうか」だった。
普通は、
毎日連絡を取る人とか、恋愛感情を持っている人とか、一緒に住むこととか、セックスする人とか、定義するものだけど、
彼にとってはそれは関係なく。
たとえば私が「1年間日本一周しに行く!」と言っても、「他の人とセックス」をしていても、
彼も私もお互いを「人生の主要人物」と思えばそれは「付き合っている」と言えるんじゃないかな、と。
なのでそうなると、
逆に、私たちの「別れる/別れている」というのは、「片方が、相手を自分の人生の主要人物と思わなくなった(サブキャラもしくは抹消)」状態と言える。
ただ、「物理的に一緒にいる時間が減る」のは悲しいそうなので、日本一周や他にセックスする人がいたとしても「1年はちょっと長いから半年ではどうでしょうか?」など打診することもあるかもしれない、と。
世間のマジョリティの基準に合わせると、
「彼女を日本一周に送り出すなんて、そんなに好きじゃないってことだよ」「他の人とセックスしていいだなんて、寝取られ癖でもあるの?!」って言われかねない。
でも彼自身は、ただ単純に、私のことが好きで人生の主要人物と思っている。
また彼は、「名付けて役割を決めること」に嫌悪するタイプである。
家族とか恋人とか、名付けることで「家族だから〇〇すべき」「恋人だから〇〇であるべき」に囚われ、付いていきたくもない社会に迎合させられるような気がするのが。
そして昨日、2月に行われたポリアモリーウィーク2024(https://twitter.com/polyweekjp)の対談のアーカイブ放送を見ていたとき、「ロマンティックエスカレーター」という言葉を知った。
という、いわゆる順番があり、段々登っていくのだ。
階段だったらゆっくり登っていったり、または降りていくことも出来る。友達に戻るとか。
しかしこれは「エスカレーター」。一度乗ったら登り続け、戻れないのだ。
私たちはこの「ロマンティックエスカレーター」には乗らないことにした。
結婚もしない。子どもも産まない。家を購入したけども、もしかしたら別居することにもなるかもしれない。
だからこそ、
2人が話し合い、「同じ認識」でさえあれば、世間とは違うことが「付き合うの定義」になってもいいのかもしれない。
最近、「セカンドパートナー」「オープンマリッジ」「ポリアモリー」など色んな関係思考やライフスタイルがあることが認知されてきているが、
その根源はこうゆう「付き合う」の定義が多様になってるからなのか。
もうひとつ。あえて2人の関係性を名付けない人もいる。
「付き合う」という形が2人の間だけでもコロコロ変わるからこそ、「名付けるのはむしろナンセンス」なのかもしれない。と思った。
あみーご
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