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市内駅近物件のインスタントの恩恵は素晴らしい!と思っていた

この春に、市内駅近物件に引越しをした。
駅から徒歩五分で、電車に乗れば10分以内に中心地に行けるし、府県を跨いで小旅行もすぐできる。


外出しようと思えば、午前中からでも、はたまた夕方16時頃などの絶妙な時間でも、すぐに行きたい所へアクセスできる恩恵は本当に有難いものである。

私の実家がある場所は、県庁所在地の市内でありながら、
メインの交通手段は車移動である。
私は3年前に免許を取得して以降1度しか運転しないまま、
免許更新を済ませたペーパードライバーの鑑なのだが、地元の同級生は車持ちが本当に多い。

帰省する度に、久々に遊ぼうよ!会おうよ!ご飯いこう!となると「まず誰が車を出すか」という話題が当たり前に出てくるのは、
利便性の高い土地で、基本電車移動が可能なエリアでずっと過ごしてきた人には馴染みがないであろう。(車好きを除く)


今住んでいる場所であれば、
休日に予定していた約束がキャンセルになったとしても、
「ここのライブハウスで行きたいアーティストのライブがたまたまやってるから、チケットを取って行こう」であったり、
「そうだ、京都へ行こう」とキャッチフレーズ通りのことが容易に実現可能であったりする。

田舎ではお金と時間をかけないと受けられない恩恵を、
都会ではすぐ手に入れられる手軽さとフットワークの良さは、非常に便利でありながら、
容易に個々人の価値観や指針まで変えてしまう。

私は子供の頃転勤族で、約3年ごとに引越しを繰り返して、
子供ながらに、住んでみて初めて分かる、
土地それぞれの価値観やコミュニティの在り方や、文化への向き合い方というものを直に感じたからこそ、
住む場所(特に小中学生時代)は自分自身の性格や知的な部分に大きな影響があるのだと、
かなり思っている。



幼い頃はなんやかんや都会は漠然と便利なんだな〜と、思っていたのだが、
選択肢が多すぎるがゆえに、情報過多で、
自分がどうしたいのか、飽和状態になることが多い。
それがまさに現在の私である。

常に、次から次へと待ち構えているかのように
レコメンドが更新され、
何かが終われば、何かが必ず始まる。
何かをインプットして、それについて自分が何を思ったのかについて、判断や消化できないまま、
また新しい事柄に触れる。
「考える」や「咀嚼する」という行為は、もはや失われつつある。

私は何がしたいのか、本当に自分自身でわからなくなることが多々あり、怖くなる。

インスタントな恩恵は、余韻もほどほどに、
全てを享受し切れていないように感じることも増えた。

知識の差で見える景色が違うという有名な風刺画があるが、経験の差もやはり当てはまる。

田舎で、経験できる事柄というのは限られていて、多くの事柄を知ったり経験したりしようと思った時、
どうしても都会に住む人々よりも、
コストと時間がどうしてもかかってしまう。
なので、自動的に経験できる事柄が少なくなってしまうケースがある。

逆に都会で、経験できる事柄は圧倒的に多い。
だが、経験できる事柄が多ければ多いほど、
そこから本当に必要な事柄を取捨選択できているのか、と言うと、それはまた話が変わってくる。

勿論田舎でしかできない、ならではの事柄だって沢山あるし、
都会と田舎はどちらが「正」で「良」なのかについて問いたいわけでもない。
都会を礼賛したい訳では無いのだが、現代社会においては、どうしても都会にいるという事実が多くの側面においてアドバンテージなのは間違いないのだ。

ネットが著しく発達し、オンライン上でのコミュニケーションが主流になったとはいえ、
まだその事実を覆すのは難しい。

安く手軽に様々なことが経験できるアクセス性は、自己の知的財産に大きく関わってくる。
というのも、人はもはや何かモノを所有することよりも、アクセスできることの方を重要視しているからである。





最近たまにふと山奥の田舎で、何も考えず悠々自適に暮らしてみたいと思うこともあったりする。
目の前にある幸福にしっかりと全身で向き合い、丁寧に味わってゆく。

ところで、フィンランド人の幸福度が世界的に見て、高い理由についてのコラムを先日読んだ。
どこが出しているコラムだったかは忘れてしまったのだが、
フィンランドは「幸せのハードルが低い」のだという。
日本でいう東京などの都市における人達は、選択肢が多すぎるが故に、幸せのハードルが高く、
なかなか埋まらない幸福度に一喜一憂しているのだという。
コップの水が少しでも減ってしまえば、
直ぐに継ぎ足さないと我慢できない、というような感じだろうか。

一方日本という同じ国内でも、田舎の方で、
フィンランドの方々のように幸福度を考えられる地域はあるのではないか。

田舎道を自転車を漕ぎ、夏の風や生い茂る草木の香りを感じる。
地域のスーパーマーケットですら、文化を享受できる。
友達と電話をしていると、電話口からカエルや鈴虫の鳴き声が聞こえてくる。

都会に住む人々が目を向ける余裕の無い事柄に、
真摯に向き合い、味わうことができる。
そこでしか磨かれない丁寧な感性が、必ずある。


しかしそういった所謂「スローライフ」を思い描いて、地方へ移住する人も、
旅行や短期間滞在するのではなく、
定住するとなるとなかなか、
その土地の価値観やコミュニティに馴染むのも難しく、「移住失敗」するケースも多くないらしい。

「郷に入れば郷に従え」の壁は、長年培ってきたものによって成り立っているからこそ、
そう簡単なものではない。

もし馴染めなかった場合、
今まで慣れ親しんだ都会ならではの「娯楽」や「便利な交通機関」という逃げ道の少なさに改めて気づき、初めて狼狽してしまう人もいるのだろう。

私の母は転居するたび、私たち(私と姉)の学校が変わる度に、PTA 会員や町内会の役員になっていた。
田舎や、田舎とは言えないが住民の団結が強く感じられる地域は人脈が本当にものを言うのだ。

そうなったときに人脈を作れるか作れないかは、家族の生活に対する幸福度にも影響してくる。


こうなったとき、都会に住んでいる人は、
地域の繋がりは希薄なものの、そこに縛られることは少ない。

人との繋がりを作りたければ作れば良い。
別に作りたくなければ作らなくてもいい。
私たちには、アクセスしやすい文化や娯楽や交通機関がすぐそこにあるではないか、そこに逃避すれば良い。
それが成立する街なのである。


ここまで沢山思いのままに、つらつらと私自身の考えを連ねたが、結局シンプルに何が言いたいかというと、
地方都市と呼ばれる、丁度いい都会感と親近感もある街に生まれ育った人が日本において1番幸福なのではないかと思うのだ。


今自分は利便性のある場所に住んでいるからこそ、
情報社会に飲み込まれることなく、
取捨選択していく必要がある。

インスタントの恩恵も有り難く受け取りつつ、
でも享受したものをできるだけゆっくりと、
ディテールの部分まで味わって咀嚼していきたい。

それが私にとって、
ここでの自分を見失わない為の生活の向き合い方なのだと思う。



私は何歳になるまで、こんなことをずっとグルグル考えているのだろう…。




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