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プロレスに祈りを持った日のこと

先日、初めてプロレス(DDT)の大会を現地で見た。その主観を書く。
(※初心者のため様々な認識違いや知識不足の面があると思われますがご容赦ください)

そもそものきっかけは去年の11月、声優の熊谷健太郎さんがDDTさんの大会にゲスト解説として呼ばれたことだ。
熱心に熊谷さんのことを追っていたわけではない。けれどラジオ等で時々飛び出るとても熱のこもったプロレス愛を聞いてはいたので、この仕事は誉れなんだと理解することは容易だった。

当時、専門配信サイトWRESTLE UNIVERSEが年内月額無料だったのも幸いした。たまたまその日、時間の空いていた私は今思うと本当に本当に申し訳ないことにお気軽に、熊谷さんの誉れな仕事をちょっと覗いてみたい、という気持ちで配信ページを開いたのだった。

結果、私はその日の計11試合を食い入るように見ていた。
人と人とのぶつかり合いがこんなに面白かったのか。ユニークな試合でその緊張が緩和されたかと思えば、終盤のリーグ戦にはただ圧倒される。
あんまりにも視界に新鮮な迫力だった。きらめきの満漢全席だった。どうしてこんなに惹きつけられるのか、その時の私は何も分からないまま、ただ凄かったと、その日が終わった。
今思うときっかけになった熊谷さんにもお礼が言いたいし、ゲスト解説に呼んでくださったDDTさんにもお礼が言いたい。今とても楽しいです、ありがとうございます。

プロレスという単語の持つ印象こそふわっと理解しているが、知識といえば「昔、劇的ビフォーアフターで寮を改装していた団体がありましたよね?」程しかない、ほぼまっさらな状態でぶつけられたDDTの試合は強烈だった。
11.3以降、時々WRESTLE UNIVERSEで大会のライブ配信を見るようになった。アーカイブの膨大さや、それらが視聴無期限・回数無制限であることにありがたさを感じてはいたものの、まだそれらのどこから手をつけていいかは分からなかった。
何が何だか分からないが楽しかった。背格好とファイトスタイルから名前を頭の中で結びつけて、だんだんとその選手のことが分かってくる感覚も久しい学びのひとつで楽しかった。

試合の幅がバラエティに富んでいて、オタク心をくすぐる楽しいギミックも詰め込まれている。選手の表現の振り幅もとても広く、様々な試合に対応しているのは、いつも新鮮な驚きと楽しさがある。ドキュメンタリー仕立ての煽りVには心を何度も動かされ、その後の試合の興奮でそれは何度も爆発した。

その時の私は寒さで体調がすこぶる悪い時期だったが、まだ感情は動いているから大丈夫だと何度も勇気づけられた。
選手のことが分かるにつれ、過去はどんな試合をしてたのか少しずつ見ることができるようになってきた。知識が増えるにつれて、最近見た試合を見返すのも面白さが倍増することが分かった。人の歴史に触れることは、どうしてこんなに心動かされるんだろうか。

年明け、友人の誘いもあり現地に初めて訪れた。
小規模な会場での地方興行。選手がすぐ横なんかを歩いている距離の近さにビビりつつ、どこかあたたかい空気を感じていた。

試合開始時刻。照明の落とされた薄暗い空間。空調の音が遠くで降る雨音のようでいて、深い森の中にいるようでもあった。少し見上げた先にある、ぼおっと白く浮かび上がるリングの上は、薄く霞がかかっているようにも見える。そこは俗域との境目かもしれなかった。
非日常を感じるには十分だった。けれど、その上に立つのは現実の人間だ。起きることは何であれ現実の延長線上にあるし、誰かにとっての日常でもあるはずで。この場は様々な階層でハレとケが揺らいで混ざっている。

それは私にとってあまりにも懐かしい光景でもあったと、ようやく分かった。この光景は全く通っていなかったものではなく、そこには確かにルーツが見えた。
スモークが焚かれて、照明が軌道を描いている。私は今まで何を見ていたのか、今から何を見ようとしているのか。浮かんだ疑問をひとつ抱えて、私は初現地に臨んだ。

私は観戦・観劇の類いについて、何を見せているかを考えることも大事とは思うが、結局は我々が何を見ようとしているか、受け取ろうとしているかが肝だと考えている。
その日の私は選手の方が、セコンドに付いている方が何を見ているのかを重点的に見ることにした。何か新しく受け取れるものがあるかもしれないと思ったからだ。
真っ先に思ったのは、やはり現地は音が違う。声の通り、打撃の迫力。小さな会場でも熱気は充満しており、私は五感で取り込めるもの全部を食い入るように見ていた。
結果、その日だけでは分からないことが増えた。ただそれは、苦しいことではなかった。何か分からない楽しさをまだまだ見ようとできるワクワクが育っていることを感じていた。

もう少し私の話をすると、私はおおむねフィギュアスケート観戦育ちライブイベント畑を経由してきた。他にも細々見ているものはあるが、本旨ではないので割愛する。
当初、プロレスに対して、私は今までの経験にはない新しいものを見ているからこんなに惹きつけられていると考えていた。しかしそうではなかった。この日の観戦を通じて、むしろ共通するルーツがあったと腑に落ちた。

フィギュアスケートは内観の競技だと考えている。滑走者が、誰も助けてくれない広いリンクで自分の持てる全てを一曲の間にぶつける競技。我々はそこから滑走者の生き様であったり様々な要素を見ようとしており、それは一種の対話になる。
ライブも内観であり対話だ。音の共有、歌の共有という広範囲の対話だ。
プロレスはより対話に寄った競技だと認識していた。
言葉も肉体言語も駆使したリング上での対話。その中でも言葉が太刀打ちできない環境、肉体言語で語り合う様に我々は圧倒されるのかと考えていた。そして言葉を、肉体言語を鍛えるには、やはり内観が求められる。

ただし観戦者の我々と氷の上板の上リングの上とでは、どうあっても確実な一線が存在する。だから、どれも根本的に我々には祈るしかできない。
祈り。喜怒哀楽何を内包するかは人それぞれだが、そこには祈りがある。
推しを見る喜びも、競技者の未来に賭ける気持ちも、ピンチになんとかなってくれと願うことも、この時間が終わらないでくれと思うことも、あらゆるものは祈りだ。

どのように表象するかはルールとマナーの範囲内のことであるけど、祈る瞬間、私たちは自由になれる。
それは声でも拍手でも紙テープでも目線でも。祈りを介して、我々は不可侵の域と対話をしたように感じる、フィードバックを得たように思う。それは紛れもない自由の真っ只中にある。
この感覚は確かに持っていた。プロレスのことをまったく自分とは縁の無い新鮮なものに思っていたけれど、祈りを持つ瞬間がこんなにある競技、楽しめるに決まっていたのだ。

初現地らしい感想を述べるなら、とにかく初心者でもとっても居心地が良かったです。配信で見た新春興行の選手入場なんかが特に印象に残っているけれど、DDTさんのあたたかな雰囲気、結束の強さという部分がにじみ出る場面に試合内外問わず触れられる瞬間が結構あるところが好きです。
個性的な選手を束ねる団体としての懐の深さがそうさせるのかなと分かっていないなりに分かるものがあり、見る側の我々も進んで楽しんでもいいと思わせてくれる空気はとても心地いいものでした。
物販を購入する際に手売りしていた今林GMに今日初めて会場で見るんですと伝えたら、選手のサインも貰っていってくださいねと暖かく返してくれたことも嬉しかったです。

ちなみにこの日の最後、遠藤選手が秋山選手に何か話を振るはずが、すっ飛ばして締めに入ってしまった際の様子がその日私の一番のツボに入ってしまったので、技巧を凝らした笑いもあったけど素のボケの破壊力ってやっぱ強いんだよな……と思ったのでした。

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