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神だか仏だか、とりあえず提訴させてくれ

おばあちゃんの写真に手を合わせられない。

ご飯を作った時や、何かおいしくて甘いお菓子を買った時。決まって、おばあちゃんの写真の前にお供えする。我が家には仏壇がないから、電子レンジの上におばあちゃんの写真を置いている。簡易的な、申し訳ないくらい簡易的な物だけど、その前はなるべくお供物でいっぱいになるようにしてる。

普通は、何かお供物をあげる時、仏壇だったら鐘を鳴らして手を合わせる。我が家の電子レンジの上だって、簡易的ではあるけどそういう役割のものだ。普通だったら、手を合わせるのが一般的。だけど、手を合わせられない。食べ物を、「食べてね」「美味しそうなの見つけたよ」って思いながらあげられるけど。

手を合わせたら、もう本当に。本当に、死んでしまったと、受け入れるしかなくなる気がして。

泣いてしまうから、手を合わせられない。

どうして、罪を犯す人がのうのうと生きているんだろう。って、おばあちゃんがいなくなってから思うようになった。どうして、私の大切な人は、誰にも迷惑かけてないのに。自分の子供や孫にさえ迷惑をかけないように、1人で必死に生きていたのに。
神様は、いや神様だか仏様だか知らんけど。連れてってしまった、否応にも。こちらの声なんて全く何も聞かずに。連れ行かないでってお願いしたのに。
あちこちから心臓の拍動を伝える機械音が聞こえてくるのに、その、どれ1つも、おばあちゃんのものではなかった。おばあちゃんのところだけ、静かだった。
体をありとあらゆる方向から引きちぎられるような、悲鳴をあげて耳を塞いで、到底受け入れられるようなものじゃなかった。

地球はでかい。自分の知らない人がすんごいいっぱいいる。宝くじが当たって、10億とか当たって、一生をかけて世界をくまなく探したとしても、おばあちゃんはいない。似てる人は何人かいるかもしれないけど、自分のおばあちゃんはいない。「ミシンが友達」って笑ってたおばあちゃんは、どこにもいない。世界中の手芸屋さんを探してみたって。
自分のことを、「何になっても楽しみ」って励ましてくれたおばあちゃんはいない。いつかカラオケ行こうね、って言った。カラオケ屋さんに先に行ってるかもしれない、なんて。
そもそも、宝くじが10億当たるとかもうそんな次元じゃない。何億、何兆、お金を積もうが見つけることなんてできない。だって、おばあちゃんはこの地球上にいないのだ。会いたくたって、どんなに血眼で探したって、会う人全てに写真を見せて聞いたって。地球何周したって。

いない。絶望。

書いていて、ポロポロと涙が出る。閉ざしているはずの唇が震えて、隙間から嗚咽が漏れそうになる。
なんでだよ。なんでだよなんでだよ。
って、なっちゃう。もう考えたくない。

自分にとって写真の前で手を合わせるということは、これら考えたくない現実が津波となって押し寄せてくるということだ。溺れて見失う。感情の落とし所を。
手を合わせられない。合わせたら、もうどうしようもなくなってしまう。
だって、まだ受け入れられない。何か、悪い冗談であってほしい。

今日だって明日だって、写真の前に美味しいものをお供えする。きっといるから、一緒に食べる。写真のとこでも、自分の前でも後ろでも、右肩あたりでも左肩あたりでも。ただ今は見えないってだけで。全部見て、全部知ってる。

だから、おばあちゃんの写真に手を合わせない。

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