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(小説)山に眠る鳥たち -12-

 2017年 3月。
 届いた冊子は100冊。50冊にずつに分けて梱包された段ボールが2つ。配達した男性はこともなげに運んできたが、私より先に持ち上げた真紀ちゃんの細い腕が重みで震えている。私も段ボール箱を持とうとするが、上がらない。
「真紀ちゃんよく持てるね」
 持ち上げるのを諦めて、側面から手で押して、私は居間まで箱を移動させた。
「いつも、楽器持って移動してるからね」
 真紀ちゃんは細い腕を九十度に曲げて力こぶを作って見せる。触らせてもらったら、硬くてみちみちだった。
「立派な上腕二頭筋!」
「その言い方、生々しいよぉ」
 褒めたつもりが気持ち悪がられてしまった。
 俊君はみちるさんと一緒に地震の被災地を回り、亡くなった方の幽霊談を集める活動をしている。最初は、ぽつりぽつりと耳に届く程度の幽霊話だったが、蓋を開けると意外に多く存在し、新聞記事としても取り上げられたことから、最近では被災地のありふれた話題として受け入れられている。俊君は、幽霊を目撃した、話した、車に乗せた等といった体験談をまとめて本を作った。この活動に協力してくれた方々に渡す予定の本が今日届いたのだ。
 ママの車が家の前に現れて、ドアの閉まる音が二回した。
「ちょっとレッスンしてくるね」
 真紀ちゃんにピアノを習いに来た、可愛らしい二歳の男の子。
「歩きだしたら目が離せないのなんのって。一成はこんなに「やんちゃ」じゃなかったわ。絶対貴子さんの血よ。落ち着きないし、困ったものだわ」
 ふーっとお茶を一杯飲んで、ママは大きな息を吐いた。ピアノの部屋からは踊ったり歌ったり、ピアノのレッスンと言うよりは遊んでいるような二人のはしゃぐ声が聞こえる。
「ところで、晶。あなた本当に東京に行くつもりなの? やっと研修期間が終わって、本格的にお仕事出来るようになったのに、何も直ぐに行くことないでしょ。青山さんとは少しの間、遠距離でお付き合いすればいいじゃないの。医師としてしっかりこっちでもっと経験積んでからにしなさい。それでなくとも女性は信用されにくいんだから。もう、ウチの子達はダメねぇ。お兄ちゃんは貴子さんに振り回されて、出世しそこなってるし……」
 孫ができても少しも丸くならない。それどころか、ますます愚痴っぽくなってきたママ。貴子さんとは上手くいかず、近くで別居。仕事を辞めない貴子さんに代わって孫育てをし、幾つもの習い事に連れ回している。 
「おけいこ事は早くから習わせないと意味がないのよ。そんなの、当たり前なのに、貴子さんはちっとも考えようとしない。それに食事もいいかげんで」
 小さな足で走る響きが伝わってきて、不器用に途中で止まりながら襖が動く。ひょっこり顔を出したお兄ちゃんの息子は、ママの両足を両手で掴んだ。
「練習終わったのね。ではおやつにしましょう」
 この子は負けん気の強い顔をしている。私やお兄ちゃんよりも力強く生きてゆくのかもしれない。ママのレールに易々と乗らない子。私とお兄ちゃんはママに追いかけられて育ったけれど、この子は二歳にして、ママを追いかけさせる。
「これ、俊の本なの? ママにも一冊もらえる?」
「ママ、読むの?」
「読んじゃいけない?」
「いや、いけなくないけど、こういう現実的じゃない話は受け付けないかと思ってた」
「まったく、あなたはママの事、何にも分かっていないのね」
 ママは呆れたように深くため息をついて、真紀ちゃんが開けた段ボールから一冊取り出した。ママのことは、今も分からないことだらけだ。この人とはおそらく生涯わかり合えないだろう。けれど、それでいい。わからない相手、それがママ。そう私の中で決着がついている。
 大きなスプーンで真紀ちゃんの手作りリンゴゼリーを苦戦しながら頬張る二歳児は、もの凄く可愛い。喉に詰まらないように小さくカットされて混ぜてあるりんごを、もぐもぐと何度も口の中で動かす。時々にこりと笑う。
柱時計が四回鐘を打った。この家に来て7年経つが、俊君の手入れもあって柱時計は安定して時を刻んでいる。

 ママと甥っ子が帰ったあと、みちるさんが尋ねて来た。みちるさんは仙台の繁華街、国分町にあるフレンチレストランに勤めていて、夜の営業時間帯に来るのは珍しい事だ。店が内装工事中なので今週いっぱい休みなのだという。ホールスタッフとして勤めているだけあって、何の抵抗もなくするりと夕飯の支度に加わった。近頃では料理好きの真紀ちゃんと意気投合している。レストランの料理をこっそり真紀ちゃんに教えたりしているみたいだ。
「あ、俊君帰ってきた」
 柱時計は七回鐘を打ったばかり。勤務先の高校は春休み中だが、卒業入学シーズンで俊君は忙しそうに学校に通勤している。
「お、来たね。とうとう」
 鞄を壁際に置いて手を洗った俊君は、着替える前に段ボールの前で本を確認した。隣にみちるさんが座って一冊の本を二人で見ている。
「そこのお二人さん、結婚はいつですか。それから、テーブル空けてくださいな」
 おかずを乗せたトレーを両手で持った真紀ちゃんが、二人の背中側から言った。
「ま、真紀ちゃんっ、そんな急に。俊君とみちるさんびっくりしてるよ」
 真紀ちゃんは私に顔を向けながら目の前を通って、テーブルに皿を移す。
「アキちゃんも、だよ」
 きょとんと不思議顔で私と俊君とみちるさんはお互いの顔を見遣った。
「俊君とみちるさんの中で絵理奈さんは生き続けてるって、みんな分かってるし、それに私が絵理奈さんだったら、二人の結婚は、もう許そうって、そろそろ思えるかも。そう思えるくらい、もう時は経ったんだよね。ま、やきもちは当然あるけど」
 俊君とみちるさんは恥ずかしそうに一回目を合わせて逸らした。
「アキちゃんも早く結婚しないと、あの伯母さんに邪魔されるよ。青山さん、めっちゃ良い人じゃん。けど、旧帝大出てないし、医者じゃないし、超一流企業の社員でもない。やばいよ、これ。早くしないと二人の間に伯母さんが割って入ってくるよ」
 ぼんやりと危惧していたことを、真紀ちゃんはリアルに変える。
「東京、行きなよ、アキちゃん。それから俊君とみちるさんもここを出て二人で新しい生活しなよ」
「真紀ちゃんは? 一人になっちゃうじゃん」
 真紀ちゃんがここで一人でいることを想像したら、私の心は湿った。
「え、やめて。アキちゃんに同情されるなんて、プライド許さないんだから」
「でも……」
「おかまいねぐ!」
 真紀ちゃんは笑いながら食事を運ぶために台所と居間を行き来した。
「イベント会社を立ち上げようと思うの。バンドで人脈も広がったし、今更会社勤めとか、音楽しかやってこなかった人間には無理だしね。お父さんのクリニックは真央が歯学部入ってくれたから心配ないし。だからみんなで、せーので、ここから出よ」
「真紀ちゃんはどこでやるの? 会社」
 俊君が訊いた。
「取りあえず、ここじゃ色々不便だから、仙台の街中のどこかで」
 三人の生活に終わりがくる――。いつかは……と、分かってはいたけれど、いざ泉ヶ岳を離れるとなると、どうにかならないかと考えてしまう。
 同級生の直美の結婚式の後、何度か青山大樹と呑みに行って交際が始まった。プロポーズはされていないが、医師の研修が終わるのを機に、大樹から上京を勧められている。大樹は大学を卒業したあと、東京の会社で働いている。この家から離れたくなくて、私は悩みに悩んでいた。大樹がここに一緒に住んでくれないかと本気で考えるほどに。
「みちるさん?」
 真紀ちゃんの声でみちるさんを見る。暗い顔をしていたのは私だけではなかった。実は……と俊君が口を開く。
「絵理奈の実家でちょっと辛い思いをさせて」
 二人の交際に反対され、非難されたであろうことは、おおよそ察しがつく。絵理奈さんの両親は俊君を手放したくないのだ。暗くなった空気に構わず、真紀ちゃんは平然と箸を、一人一人の前に配った。
「いいじゃん、それでも。だって、生きてくのは自分だもん。どんなに思っても自分以外の人の人生歩めないもん。責任も持てないしさ。結局、みんなそうでしょ?」
 みちるさんは応じるように真紀ちゃんの手から箸を受け取った。
「そうだね。自分で幸せになるしかないもんね。それは絵理奈も、絵理奈の両親だって、誰だって同じだよね。なんか、元気出た」
 みちるさんは憂さを振り払うように、みんなの湯呑に茶を注ぎ始めた。
「私、東京に、……行くね」
 私の口から、かなり弱々しい、自信なさそうな声が出て、声を聞いた自分がまた怯みそうになった。
「うん!」
 真紀ちゃんが力強く返事をした。
「けど、俊君と真紀ちゃんと別々になるのが寂しい。この家に誰もいなくなることも……」
 柱時計はねじを巻く人が居なければ、また眠りに就いてしまう。この家から音も灯も消えて、私たちがいなくなったこの家は、人々が通り過ぎて行った思い出だけを抱えながら、孤独に佇むことになる。街中のマンションの自室から泉ヶ岳を見遣った時のことが蘇る。あの時も、この家の事を思うと切なくて仕方なかった。私はこの家と自分を同化させて、寂しくて悲しくて堪らなくなる。 「俺、時々ここに来て、時計のねじ巻いて、じいちゃんの畑の手入れするから。真紀ちゃんとアキちゃんがいつでも帰ってこれるようにしておくから。だからそんなに寂しがらないで」 重く沈んだ私の心を俊君が助けてくれる。真紀ちゃんの瞳は潤んでいる。二人にとっても、この家は大切な場所になった。私だけが苦しいのではなくて、この家への思いは三人で分け合っている。私たちは既に眠りから覚めている。もう私たちは孤独ではないのだ。だから、この幸せな世界から出て、広い世界に羽ばたいていける。
「あ! 見て。和花名ちゃんがテレビに出てる」
 みちるさんの声につられてテレビを見る。

――アナウンサーの葉山和花名です――

 数日後。
 真紀ちゃんが縁側の掃き出し窓を開けると、甘くて爽やかで強い、口の中にまで味がしてきそうな沈丁花の香りが、風に乗って入って来た。三人で遠くの山に目を遣る。まだ木々は眠ったように茶色で、息を潜めている。
 俊君が縁側の藤椅子で読んでいた本を閉じて、立ち上がって背伸びをする。みしり、と俊君の足下の床が軋んだ。家は古いままだ。とうとうリフォームには至らなかった。おばあちゃんが生活していたぬくもりを消すことに、私が躊躇していると、二人は「アキちゃんの気持ちが決まったら」と言ってくれて、あっという間に今日まで来てしまった。
 真紀ちゃんの部屋と、縁側を仕切る薄紫色の麻布が風に煽られている。この麻布は七年前、真紀ちゃんが引っ越してきた時に、おばあちゃんの仙台箪笥の中から出てきたものだ。
「ここに住む前はさ……」
 真紀ちゃんは静かに口を開く。
「おばあちゃんのことを嫌いだったけど、それなのに、引っ越してきて、おばあちゃんの遺していった物を見た時、『センスいいな』って、感動しちゃって。ピアノも仙台箪笥も、ちゃんと手入れされてて、物から伝わった感触でね、『この人のこと、ホントは好きだ』って思えたの」
「そっか」
 真紀ちゃんの呼吸に合わせて、私はゆっくり返事をした。
「俺さ、ちっちゃい頃から、真紀ちゃんと和花名とおばあちゃんと瞳伯母さんて、すごい似てるって思ってた」
「えっ、ホントに?」
 真紀ちゃんが目を丸くした。
「だって、親戚が集まって喧嘩になるのは、いつもその四人だし。自分と似てる人がお互いに気になってるパターンだなって」
「あれ? なんかそれ、反論できないかもしれない……」
真紀ちゃんが苦笑いする。
「沈丁花の花ことば『死なない』『滅びない』『永遠』『栄光』なんだって」
 スマホで調べたばかりの情報を、私は披露した。
「私たちのことみたいじゃない? 半分死んだ感じでここに来て、元気になって出てくの」
「真紀ちゃん、それは『リセットできた』ってことじゃない?」
 私がそう答えて、三人で深く頷き合った。
「また誰か、この家に住むかなぁ?」
 真紀ちゃんがコタツに肘を付いた姿勢で感慨深けに言った。
「もしかしたら、私達の子供とか?」
 私は未来に思いを馳せてみる。
「俺、退職したら、ここに住もうかな」
「退職するまで、あと三十年もあるじゃん。ここ、そんなにもつかなぁ」
 真紀ちゃんの突っ込みに、俊君は明るい表情のまま藤椅子に座り直して、再び本を開いた。
 柱時計の鐘が三回鳴った。
 春の光に包まれた家に、真紀ちゃんの弾くパッヘルベルのカノンが響く。真紀ちゃんのピアノの音色はジャズフェスに出場する度に変化した。今の真紀ちゃんから生まれる音には、強引さも、押しつけがましさもなくて、心にすっと入ってくる。私はスケッチブックを破ったあの日から、絵を描いていないけれど、近頃の真紀ちゃんのピアノを聴くと、無性にスケッチブックに向かいたくなる。
 三人で過ごした山の日々がもうすぐ終わる。おばあちゃんの麻布が、一瞬、風を孕んで、大きくはためいた。
「……がんばれ……」
 おばあちゃんが、私たちの背中を押してくれている気がした。
(了)
 


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