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「ショウタさん、明日の朝は何を食べましょうか」

「そうだね……真っ白なご飯と、焼き魚と、ゑつ子さんの豆腐の味噌汁がいいね」

「真っ白なご飯……お腹いっぱい食べたいですねぇ。魚は、秋刀魚(さんま)がいいですね。油がのって太った大きな秋刀魚にしましょうね」

「太った秋刀魚か。ゑつ子さんは食いしん坊だね」

「だって、とびきり大きいほうがいいでしょう? 一人じゃ到底食べきれないような」

「そうだね。永遠に食べ終わらない白飯、とかね」

「いいですね……熱々のご飯に、卵も乗せて……」

玄関扉を誰かが何度も叩いている。

「ショウタさん! ゑつ子さん! ショウタさん! ゑつ子さん!」

木製の扉に挟まった硝子が、シャンシャンと鳴る。

どこからか、燻された匂いがしてくる。障子戸を通った橙色が、二人の顔を染める。爆音がするたびに、家は軋む。この家だけが守られている。ゑつ子はそんな気になる。ここだけは、とても平和だ。

「帰って来てくださいね」

「待っててほしい」

玄関先が静かになる。ショウタとゑつ子はきつく抱き合う。

屋根の真上を激しいプロペラが通る。警報は鳴りやまない。人々の駆け足が聞こえなくなった。

生きたいとか、死にたいとか、そんなことを考えるのは、きっと贅沢なことだ。だって、私たちは、そんなこと選べやしない。

飢えを凌ぐために何とか食べ物を調達する。身を守るために火の球を交わす。逃げる、逃げる、逃げる、走る、走る、走る。

そして、限られた時間を、愛する人と過ごす。

明日ショウタは行ってしまう。女であるゑつ子の手が、決して届かない場所に。

もし、平和な世界に住むことができたら、何をしよう。ゑつ子はショウタの腕の中で、考える。白いご飯、夜ぐっすり眠る、明るい色の服を着る、友達と立ち話をする……考えているうちに5本指は全部埋まる。

****

炊飯器を開けると、湯気が上った。真っ白い新米が艶立っている。3人の昼飯に、米を五合も炊いてしまった。茶碗によそっても、まだまだお代わりがある。夢をみているのかしら。

ゑつ子は明るい桃色のカーディガンを着た腕を、お醤油にしようか、ポン酢にしようかとうろうろさせる。昔は選ぶことなんてできなかったのに、いざ選べるとなると、意外に煩わしいものね。

「お母さん、座ってて」

70歳を過ぎた娘が、台所を仕切っている。窓の外は快晴だ。

ゑつ子は空を見遣る。この空を恐ろし気なプロペラが通ったことなど、果してあったのか。遠い日の現実が、あの日々のほうが、幻だったのではなかろうか。そんな気さえしてくる。でも、幻でもいいわね。もう、過ぎたことだもの。

「ゑつ子、お茶を頼む」

夫に差し出された湯呑は孫に貰ったものだ。英語でshotaと焼き付けてある湯呑み。あんなに亜米利加を嫌っていたのに、孫にプレゼントされたときのshotaの文字を愛おし気に見つめた夫の顔。そのとき、やっと私たちに平和がきたと思ったわ。

あぁ、夢のよう。丁度、秋刀魚が焼き上がった。

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