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重い朝をくぐって

死ね!死ね!死ね!!

目の前のこいつが死んだとて、悲しくも何ともない。ぴっかぴかに清々するに決まってる。60間近になっても45歳だと堂々と言い張る女。皺くちゃの顔に原色まんまの青いアイシャドウと、顔色に馴染まない明るい赤のグロス。艶感が余計きもい。その口で、私が作ったご飯食うな。

カオルは台所から出て行こうとした。

「人が食ってるときに、バタバタとうるさい娘だよ。大体、老いた母親を労わろうって気が無いなんて、あーあ、子育て失敗って、こういうことを言うんだね」

「だったら、私が作ったご飯食うな」

母は無視を決め込む。母、母、母。人生最大の失敗は、目の前のこいつの腹から生まれてしまったことだ。カオルは自室の扉を激しく閉めた。毎朝この調子だから、ドアの取っ手が衝撃でゆるくなった。もう何年もゆるい。ゆるさが、我慢してきた歴史だ。長い。長い!ぷんぷんと着替える。カオルは調理の専門学校に通っている。

母より10歳上だった父は昨年死んだ。父も特別優しかったとか、子供想いだったとか、そんなことはなく、母の自己中に振り回されまいと、母と距離を取っていた。だから、父が消えてもこの家は何も変わらない。姉はとっととこの家から出て行った。東京にいるらしいが、東京のどこで何をしているのか分からない。「あんた、そんなとこ、いつまでいんの? 頭おかしいよ」姉に電話で嘲笑される。姉と母は同じ遺伝子だから、構っちゃいけない。

台所に戻ると、母の姿はなかった。食べ散らかした魚の骨と、バラバラに向いた箸先。品性のカケラもない。家と繋がる店先から小室哲哉プロデュースの曲が聞こえる。それが母の中では、一番「イケてる」ミュージックだ。母の自営する美容院は、おばちゃんたちの溜まり場だ。馴染の顔がそれぞれ空いた時間に、入れ替わり立ち代わりやって来て、たまに髪を切る。赤字経営もいいとこだ。父の残した財産は、母一人で管理している。名目上、カオルに分配された分も、実質は母の手中にある。おそらくそれでこの店はもっている。姉の分を巡っては、姉と母が骨肉の争いを続けている。

カオルは学費を全部一人で賄っている。学費どころか、母の食い分も。内緒で始めた風俗のバイト。夜はそれで、昼は学校、休日はスーパーのバイト。姉は母との係争が始まってから、家には完全に寄り付かなくなった。

母は店を開けるギリギリまで寝て、起きれば文句を垂れ、家事は一切しない。カオルは身も心も限界だ。限界がどこまで続くのか。果てしない未来に絶望しそうになる。引っ越す金がないから、仕方なく家にいる。「学校を出たら、資格を得たら」それだけが希望に繋がる一本の、蜘蛛の糸だ。

母の箸と皿を、流し台にある、水を張った桶に入れる。自分の分くらい、自分で洗え。洗うわけないのは分かり切ってるけど、そのままにする。弁当と、ラップに包んだ朝ごはんのおにぎりをリュックにねじ込んで、カオルは今日も家を出る。

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