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短編「あの子の飛行世界」(読了時間5分)

かたつむりが飛んでいた。
ネコが飛んでいた。
鳥が落ちてきた。
あの子が飛んで、消えた。

飛行症。
この言葉が一般的に使われ始めたのは、まだ3年ほど前の事だ。
かたつむりや、ネコや、人間が、急に空を飛び始める。そんな夢みたいな事が、夢じゃなく起こった。僕の中学校でももう、3人飛んでいる。

色々な学者だったり研究者が、この異常な現象を調べた。その結果、この3年で分かった事が、1つある。

かたつむりや、ネコや、人間は、元々飛べるのだ。

条件は2つ。心の底から飛びたいと思う事と、心の底から飛べると信じる事。それだけだ。
夢みたいな異常な事は、実は指をパチンと鳴らしたり、口笛を吹いたりするぐらい、当たり前に出来る事だった。

でもいつからかかたつむりもネコも人間も、飛べると信じられなくなっていたし、飛びたいと思わなくなった。だから歩いていただけなのだ。

聞いた話では、昔から伝奇のように語られる神隠しもこの飛行症が関係しているらしい。稀に居る。心の底から飛びたいと思い、心の底から飛べると信じた人が。それが神隠しと呼ばれた。

でも人々の多くは、空を飛ぶ人を見ていない。

1つ、重要な事を語り忘れていた。飛び立った人間は、空へ空へ昇り続ける。
二度と地上に降り立つことは無い。


「ほら、君もおいでよ」
 
――声が聞こえた気がした。

中学校の屋上。僕はお昼ご飯をここで食べていた。しかし、この屋上も今日で最後だ。終業式は、さっき終えてきた。僕は今日、この中学を卒業する。
空を眺める。青空に白雲。昔から続いている、いつもの空だ。

3年前、その一瞬をテレビカメラが捉えた事で、全てが始まった。

春の日、休日の平和な公園の様子を伝えるはずだったカメラは、しかし、文字通り、平和な風景から浮き上がる一人の少女の姿をとらえた。赤いランドセルが画面に映える。少女が空に昇り見えなくなるまでを、カメラは追い続けた。

その映像は毎日毎日、テレビで目にしない日は無いほどのニュースとして報道された。何人かが一緒に飛び立った別の集団の映像が撮影されるまで、それは続いた。そしてそれもすぐ、他の人が飛んだニュースに取って変わられる。そしてまた次。

人が空を飛ぶ2つの条件。その1つである心の底から飛べると信じる事。
ニュース報道が特撮でもCGで無いと世界中で伝えられた事が、条件を残り1つにしてしまった。

飛行症。誰が言い始めたのか、その言葉を耳にするようになったのは、それから間もなくの事だ。

屋上のフェンス越しに校庭を見下ろす。4階建ての距離を経た先には地上ある。顔を上げ、また空を見上げる。この空と地上の間、僕はずいぶんと低い場所に居るのだ。

フェンスを右手で掴み、屋上の淵から足を踏み出す想像をする。踏み出した足は、空に続く階段を上るように、空を踏みしめる、想像をする。

「アイ、キャン、フライ」

声に出してみる。その言葉だけが宙に浮く。僕の足は、屋上のコンクリート踏みしめたままだ。あの日と同じように。

最初に飛んだ少女は、僕の幼なじみだった。僕の、好きな女の子だった。
3年前、小学校を卒業した帰り道。公園に寄った。

「すごいことを知ってるの」

今日で背負う事の無くなるランドセルを下す事も無く、彼女は言った。

「君だけに教えてあげるね」

幼なじみの彼女は、僕を君と呼んでいた。いたずらっぽく笑った。

彼女は秘密を打ち明けるように、かたつむりが飛んだ話をした。ネコが飛んだ話をした。つい最近見たんだ、と言った。

「わたしたち、みんな飛べるんだ」

ね、すごいでしょ。笑う彼女を僕は見ていた。
中学生になると、僕らは違う学校に通う。すぐ近所に住んでいるのに、その近い家と家の間に学区の境目があった。学校が違うという事は、ずっと遠くに離れてしまう事のように感じていた。それは地を這うかたつむりと、空を飛ぶ鳥ぐらいに違う場所を生きる事のようだった。

僕は彼女の手を握った。彼女はきょとんとしていたが、僕が何かを言う前に、またいたずらな笑みを浮かべた。

「ねえ、一緒に飛ぼう」

彼女の体が宙に浮く。音もなく。

僕とつないだ反対の手でスカートを押さえる。昼下がりの公園、彼女は飛んでいた。
彼女が僕の頭より高く浮かび、つないだ手を通じて、僕は浮力を感じる。かかとが離れ、つま先立ちになる。

だけど、そこまで。

僕は手を放した。

その時の彼女の表情はよく見えなかった。空に向かって逆光だった。
だけど一瞬の間を空けて、彼女は言った。

「ほら、君もおいでよ」

離した手を、空に向けたまま、つま先立ちの体勢のまま、でも僕は飛ばなかった。
飛べなかった。周りに居た人たちが駆け寄ってきて、彼女を指さす。大きなカメラを持った集団が何かを叫んでいる。

あの子が、飛んでいた。

一緒にかたつむりが飛んでいた。
猫が飛んでいた。
彼女は途中、鳥にぶつかった。
鳥が落ちてきた。

彼女はそのまま、見えなくなった。

騒然とする公園から、僕は歩いた帰った。一歩一歩、地面を踏みしめながら。


屋上から見下ろす校庭では、ようやく生徒たちが帰り始めていた。
思い思いに写真を撮ったり、木陰で後輩らしき女の子にブレザーの第2ボタンを渡している生徒もいた。それを冷やかすように遠くで見守る男子の集団もいた。

例え彼女が飛ばなかったとして、同じ中学を過ごす事はなかった。だけどあの日、あの手を離さなかったら。僕と君はどうなっていたのだろう。

「アイ、キャン、フライ」

もう一度呟く。
人は元々、飛べるのだ。
心の底から飛べると信じ、そして、心の底から飛びたいと思えば。

あの日飛んだ、幼なじみの女の子。君もおいでよ、と言った彼女。飛べなかった僕。
空を見上げる。つま先立ちになってみる。手を空に伸ばしてみる。人は飛べる。僕は、飛ばなかった。


僕はブレザーのボタンを乱暴に千切って、空に投げた。

そのまま背を向け、僕は屋上から降りる階段に向かう。飛んで行った彼女とは別の方向、地上に向かうために。

階段を一歩一歩踏みしめて下っていく。
途中、空に投げたボタンの、落ちてきた音がしなかったことに気付いた。まるで、そのまま空に飛んで行ったように。

残り3段の階段の分だけ、僕は、小さく飛んだ。

(了)

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